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越後長尾氏の興亡Ⅵ   景虎の章

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 天文九年(1540年)父為景の隠居によって家督を継いだ長尾晴景(1509年~1553年)。守護代とはいえ事実上の越後国主として振る舞った為景の時代からは大きく権力が後退します。とはいえ、越後守護上杉定実の権威が回復した事で反為景方の急先鋒だった越後上杉一族の上条上杉定憲(政繁は守護定実の子ともされるがいつ上条上杉家を継承したか不明)や宇佐美定満らは矛を収めます。

 晴景は有力庶家栖吉長尾房景との枢軸を核に越後を再編しようと考えました。ところがもう一つの有力庶家上田長尾房長は未だ反抗を続け、中世越後永遠の反体制派とも言うべき揚北衆も反府中の姿勢を崩しませんでした。晴景は朝廷に申請し私敵治罰の綸旨をもらい揚北衆を懐柔します。さすがに朝敵となっては近隣諸勢力から侵略されても文句言えなくなるので強硬派の竹俣清綱でさえ降らざるをえなくなりました。

 一族の上田長尾房長については晴景の妹(のちの仙桃院)を房長の嫡男政景に嫁がせることで和睦が成立します。ちなみに政景と仙桃院との間に生まれたのが景勝でのちに上杉謙信の養子となり家督を継ぎます。

 ようやく越後に平和が戻りました。越後守護上杉定実は権威として存在し実質的な統治は守護代長尾晴景が行います。定実には嫡子が無く(上条上杉家に養子に入った政繁は妾腹とも言われる)、後継者問題が浮上しました。定実の養子になり家督を継げば越後守護職はもとより上手くいけば関東管領にもなれる可能性があるのです。越後上杉家と嫡流山内上杉家は一体でしたから。

 これに目を付けたのが奥州の大大名伊達稙宗(1488年~1565年)でした。稙宗は三男時宗丸を越後上杉家に養子に送り込もうと画策します。実は稙宗は越後守護上杉定実から見れば甥にあたりました。定実の父房実の娘(積翠院)が稙宗の母なのです。しかも時宗丸の母(稙宗側室)は揚北衆の有力者中条藤資の妹でもありました。

 稙宗は婚姻政策と養子縁組によって曾孫独眼竜政宗の最大獲得領土を超える250万石余ともいわれる巨大勢力圏を奥羽地方に築き上げた人物で、今回さらに越後そして関東への野心を示したのです。稙宗は中条藤資を通じて工作させ時宗丸に伊達家の有力家臣を多数つけて越後に送り込もうとしました。ところが長男晴宗は父の博打のような野望に反発しこれを諌めます。伊達家の家臣たちも多くが反対しました。失敗すれば伊達家そのものを滅ぼしかねないですから当然の反応でした。そしてついに稙宗と晴宗の親子対立に発展し、伊達家の親類縁者である奥羽の大名たちを巻き込んだ天文の乱(1542年~1548年)が起こります。

 東北の戦国史では天文の乱は遠い昔の話のような印象がありますが、実は越後では晴景の時代だったんですね。結局晴宗が勝利し、稙宗の野望は潰えました。自分の養子問題が奥州でとんでもない大乱を招いた事を憂慮した越後守護定実はすっかり弱気になり晴景に引退の意志を示したとも言われます。

 ところで、栖吉長尾房景の娘が和睦の証として長尾為景の後妻に入ったのを覚えていますか?虎御前(青岩院)と呼ばれた彼女は、為景の四男虎千代を生みます。兄晴景が家督を継いだ時幼少だった虎千代は林泉寺に入れられました。そこで名僧天室光育の薫陶を受けます。虎千代が父為景に疎んじられたため仏門に入らされたと言われますが、無用な家督争いを防ぐためにこのようなケースは多々ありました。

 当時の越後は、守護代晴景だけではとても治めきれず14歳になった虎千代は晴景に栖吉長尾家を継ぐよう命じられます。おそらくは栖吉長尾家から働き掛けがあったと想像しますが、良く分かりません。栖吉長尾房景には景信(不明~1578年)という実子がいたはずですがこの時幼少だったためか栖吉長尾家生き残りの策だったかもはっきりしません。

 ともかく虎千代は栖吉衆の後押しを受けて栃尾城に入り、元服して景虎と名乗ります。後の上杉謙信(1530年~1578年)です。栃尾城に入った景虎は、中郡の反守護勢力の平定を命じられます。景虎が若年である事を侮った近隣勢力は戦をしかけますが、天性の戦の才能があった景虎はこれらを撃ち破りました。とくに兄の仇黒滝城黒田秀忠を討ったことで景虎の武名は越後中に鳴り響きます。

 景虎の活躍を見て、晴景に抵抗していた揚北の中条藤資、その舅北信濃の豪族高梨政頼は景虎越後国主に擁立すべく動き出しました。この動きに同調したのが同じ揚北衆本庄実乃(さねより)、上杉重臣大熊政秀、中郡の国衆直江実綱(与板城主)、山吉行盛(三条城主)らでした。さらには景虎の後援者栖吉長尾景信(いつ家督を継いだか不明)までもが同調し一大勢力となります。実質的には栖吉長尾氏による反府中長尾氏工作だったとも言えます。

 弟景虎が反体制派に擁立されたという報告を受けた晴景は仰天します。しかし放置することはできないので自ら軍を率い討伐に出陣しました。晴景方には妹婿上田長尾政景中条藤資と対立していた黒川清実らが付きます。晴景方は越後のうち頸城郡、魚沼郡の上郡、山内、景虎方は中郡、揚北は両勢力入り乱れるという越後を二分する状況に陥りました。

 両軍は中郡で合戦します。結果は用兵能力に勝る景虎方の勝利に終わりました。軍記物では後退する晴景勢を追撃する景虎が、峠道を登っている時は攻撃せず、下りにさしかかった瞬間襲いかかって潰走に追い込んだというエピソードが紹介されていますが史実かどうかは確認できません。ただ景虎が、相手が自然に作り出す隙を衝いて勝利を得る日本古来の兵法に通じていた事だけは確かです。これも天室光育の教育の賜物なのでしょうか。

 ただ、晴景方も強力で特に上田長尾政景が味方についていたため府中と栃尾でにらみ合いが続きました。越後守護定実が調停に乗り出し天文十七年(1548年)十二月晴景が引退し弟景虎家督を継ぐという条件で和睦が成立します。こうして長尾景虎が越後守護代職に就任するのですが、これまでの経緯から越後国内の統制力が弱くなるのは当然でした。とくに上田長尾氏との確執は続きます。

 長尾政景と上田衆は、今回の政変劇は栖吉長尾氏の陰謀と見ていました。激しい敵意を保ち続け、景虎にも降ろうとはしませんでした。そればかりか景虎方の宇佐美定満にさえ圧力をかけはじめます。そんな中、関東では激変が起こりました。

 天文十五年(1546年)小田原北条氏の侵略に悩まされ続けた扇谷上杉朝定は長年の確執を止め関東管領山内上杉憲政(憲房の子)と同盟を結び連合して対抗しようとします。これに古河公方足利晴氏も同調し北条氏康の属城武蔵河越城を囲みました。その連合軍は八万とも称される大軍でした。ところがわずか八千の氏康勢は敵を油断させ夜襲を敢行、連合軍は不意を突かれて潰走し扇谷上杉朝定が討死するという大敗を喫します。武蔵から叩き出された上杉憲政は連年の北条氏康の侵略で上野の領土を蚕食されついに本拠平井城に追い詰められていました。

 憲政は、旧怨を捨て越後の景虎に援助を求めます。先祖の恨みより現実の北条氏康への憎しみが勝ったのでしょう。景虎は憲政を助けるため関東への出陣を号令し上田長尾氏にも出兵を促しました。これに従えば上田長尾氏が景虎に屈した事になるし、拒否すれば反乱軍として討伐されます。長尾政景は窮地に立たされました。

 天文十九年(1550年)二月、越後守護上杉定実は波乱の生涯を閉じます。亨年73歳。朝廷は景虎に白傘袋、毛氈鞍覆(もうせんくらおおい)の使用を許す使者を送りました。景虎側からの工作でしたが、これで正式に越後国主の格式を手に入れた事になります。

 追い詰められた上田長尾房長、政景父子は景虎に降伏。しかし景虎の怒りは収まらず、政景が姉婿であるにもかかわらず一門の待遇を与えず一家臣扱いしました。これは政景と上田衆にとって屈辱的でその恨みは表面には出ずとも深く続きます。それが謙信死後の家督争いとなって噴出するのです。

 天文二十一年(1552年)、北条氏康の圧力に負けた関東管領上杉憲政は本拠平井城を捨て越後に亡命しました。景虎はこれを温かく迎え府中に館を築いて住まわせます。憲政は、景虎を北条氏との戦いに引き入れるため養子にし関東管領職と山内上杉家督を譲りました。景虎は憲政から一字拝領し上杉政虎と名乗ります。


 これ以後は長尾氏ではなく上杉氏の歴史になるので厳密な意味ではこれで終わりなのですが、長尾景虎上杉謙信となって続くので謙信の章、そして越後上杉最後の当主景勝の章まで書かせてください。