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越後長尾氏の興亡Ⅴ   為景の章(後編)

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 越後中郡における為景方の重要拠点黒滝城攻略は上杉軍諸将を喜ばせました。しかし情勢を冷静に分析すれば決して楽観視はできません。というのもまず為景を滅ぼした後のビジョンが全く見えないのです。おそらく為景方についた上条上杉氏は追放され、越後守護は関東管領山内上杉顕定が兼任するでしょう。ここまではいいんです。

 問題は越後守護代職でした。何の資料的裏付けはなくあくまで私の純軍事的な考察ですが、おそらく守護代には上田長尾房長が内定したように思います。というのも上田長尾氏の本拠上田庄のある魚沼郡は上野国と国境を接し山内上杉氏の越後支配にとって絶対に味方にしておかなくてはならない家でした。上杉方が上田長尾氏を調略した時の餌も越後守護代職だったのでしょう。

 一方、栖吉(現長岡市)を本拠とする栖吉長尾氏は古志郡を中心に刈羽郡にも勢力を伸ばし上田長尾氏に匹敵する勢力でした。黒滝城を攻略したのも栖吉長尾房景でしたし。房景の功績を考えれば越後を二分して半国守護代とする案もあったでしょう。ところが魚沼郡と頸城郡という豊かで比較的安定した所を貰う予定の上田長尾氏に対し栖吉長尾氏は中郡から東、永遠の越後の反体制派ともいうべき揚北が担当区域になるはずで、これは栖吉長尾氏には我慢ならなかったと思います。

 また越後に入ってからの顕定の恐怖政治は越後国人の支持を失っていましたから統治は安定しなかったはずです。越後で優勢に戦を進める上杉方でしたが内部は決して一枚岩ではありませんでした。

 越中に逃れていた為景は、海路佐渡に渡ります。少しでも多くの味方を募ろうという考えでした。永正七年(1510年)為景は自分に味方する軍勢を率い海路蒲原津に上陸、寺泊を占領し椎屋(柏崎市)で信濃から越後に進軍した高梨政頼軍と合流します。

 同年6月上杉方は為景を攻めますが失敗、その直後栖吉長尾房景が為景方に寝返りました。為景は上杉軍中の不協和音を見抜き工作をしていたのでしょう。房景は娘を為景に嫁がせ同盟を結びます。府中では一揆が起こり(おそらく為景の扇動)、顕定は敗走しました。一気に攻勢に転じた為景を見てそれまで逼塞していた為景方が一斉に蜂起、上杉軍中に加わっていた越後国人の中にも動揺が走ります。越後国人は親戚関係が複雑に絡み合っており一方が有利になると雪崩を打って味方に付くという現象はよくありました。

 こうなると顕定は敵中に孤立します。兵を纏めた顕定は、一旦本拠上野に撤退しようとしました。ところが味方であるはずの上田長尾房長に退路を断たれます。さすがにこの情勢では上田長尾氏も為景に味方せざるを得ませんでした。為景方の討手はまたしても高梨政頼で、長森原(六日町)で合戦になり顕定はこの地で命を落とします。

 顕定の甥で養子となり後継者と目されていた上杉憲房は、越後に所領(妻有荘)があったためこの度も従軍していましたが命からがら死地を脱出し上野白井城に逃げ帰りました。憲房は
「下郎の身でニ代の主人(越後守護房能とその兄で関東管領顕定)を滅ぼすとは天下に比べるものなし」
と怒り悲しんだそうです。

 為景はついに実力で越後一国を手に入れました。こうなると傀儡の越後守護上杉定実が邪魔になります。為景は定実を監視させ主君と対等な口をきくなど横暴になってきました。定実の実家上条上杉定憲は、奥州の伊達稙宗や、琵琶島城(柏崎市)の宇佐美房忠、北信濃で高梨政頼と対立する島津貞忠と結び為景と対抗しようとします。

 永正十年(1513年)定憲は小野城(上越市柿崎町)で挙兵、栖吉長尾房景にも使者を送り味方に付くよう説得しました。しかし房景は動かず、そのうち為景が軍を率いて押し寄せてきます。この反乱に越後守護定実が関与していたのは確実で、府中守護館の詰めの城である春日山城に籠城しました。為景は、即刻小野城から取って返し城から定実を引きずり出します。合戦した様子が見えないのでおそらく城兵は形勢を見て逃げだしたのでしょう。為景は定実を荒川館に幽閉しました。

 守護方は上野の憲房と連絡を取ろうとし、間に立ちふさがる上田長尾房長を攻撃します。為景は大軍を率いて援軍に駆けつけ両者は六日町で戦いました。結果は守護方の大敗。上杉被官千余人が討ち取られ、首謀者の一人宇佐美房忠も一族郎党と共に自害しました。ただ、一人の遺児が近臣片倉壱岐守に守られ奥州に逃れます。この遺児こそ後の宇佐美定満でした。

 為景は、島津貞忠と和睦し越中の反為景方も討ちます。越後国長尾為景の地位は安定しました。幕府は為景に将軍家御供衆(御相伴衆、国持衆、準国主、外様衆に次ぐ格式だったが将軍家近臣としての名誉があった)の待遇を与えます。最後まで抵抗した上条上杉定憲も降伏しこれで為景の対抗勢力は消えたかに見えました。

 ところが、為景が莫大な献金を献じ後ろ盾にしていた管領細川高国が亨禄四年(1531年)大物崩れで宿敵細川晴元に敗北し自害するという大事件が起こります。晴元が管領に就任し為景の立場は微妙になってきました。それを見ていた反為景方は、天文二年(1533年)六月上条上杉定憲がまたしても挙兵。今度は上田長尾房長揚北衆が味方に付きます。

 為景は府中を中心にこれに対抗しますが、宇佐美定満が亡命先の奥州から帰還した事で反為景方は勢い付き大熊、柿崎ら本来為景方の諸将もこれに加わります。今回は上田長尾氏が反為景方に転じたのが大きかったと思います。上田勢は、為景方栖吉長尾氏の重要拠点蔵王堂口を攻めました。隣国会津の蘆名氏も反為景方に味方したため為景はついに守勢に追い込まれます。

 戦いは膠着し、為景は四面楚歌になりました。朝廷や幕府に働き掛け和睦の道を探りますがすべて失敗。最後に、それまで蔑ろにしていた越後守護上杉定実に頼らざるを得なくなります。傀儡とはいえ、さすがに越後守護の権威は絶大でした。天文五年(1536年)八月、為景が隠居し家督を嫡男晴景に譲る事で和睦が成立します。

 春日山城を追われた為景はその後も天文十一年(1543年)まで生きますが、失意の晩年でした。死因は上条上杉氏による暗殺という説もありますが、おそらく病死だったと思います。享年55歳。下克上の代名詞ともいうべき梟雄の最期です。


 為景の後を継いだ嫡男晴景。しかし越後の戦国時代を治めるにはあまりにも凡庸でした。越後はどうなって行くのでしょうか?次回景虎の章を記します。