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越後長尾氏の興亡Ⅳ   下克上のはじまり

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 越後上杉氏当主で越後・信濃守護職上杉房定(1431年~1494年)は、息子で山内上杉家に養子に入った関東管領・上野・武蔵・伊豆守護上杉顕定(1454年~1510年)を助けるため連年のように関東に出兵します。にもかかわらず越後国内は微動だにしませんでした。それだけ越後上杉家の支配が確立していたのでしょう。検地も文明十五年、十六年、十七年、十九年と4回も実施しています。土地の生産力把握は国衆の軍役にも直結しますから、それだけ守護の権力が盤石だった証拠です。

 越後の政権とは距離を置き時には敵対する事の多い揚北衆の有力武将本庄時長も房定に本拠小泉本庄を攻められ屈服しています。房定は能登守護畠山義継と組み越中を手に入れようとさえしました。房定の時代、守護代長尾氏一族は嫡流府中長尾実景が討たれたので逼塞していたようです。

 房定の後は子の房能(ふさよし、1474年~1507年)が継ぎました。彼の幼名は九郎なので関東管領顕定の弟に当たります。房定の長子で後継者と目された定昌は早世していたようです。房能が越後守護職を継いで三年後の明応七年(1498年)、越後国内に一つの布令が下されました。

 その内容は「国中で身内、外様が郡司不入と称し守護の任命した役人の職権を妨げているが、今後はこれを許さない。不入の証文のない土地は郡司が検断権を持つ。役人の不正は直接守護へ申し出よ」というものでした。これは守護権力の強化を目的としたものですが、既得権益を持つ越後の国衆は猛反発します。中でも最も多くの既得権益を持っていたのは守護代だった府中長尾能景(よしかげ、頼景の孫。1464年~1505年)でした。

 越後の武士たちは能景の去就に注目します。しかし能景はこの時進んで守護不入の権益を返上しました。ただ守護房能への不満はくすぶり続けます。房能が連年のように関東へ出兵して越後国内が疲弊してきた事も越後の武士たちは不満を抱きました。

 房能にとっては関東管領の兄顕定を助ける遠征でしたが、越後の武士たちにとっては何の関係もなかったのです。越後国内では、自分たちの利益代表として守護代長尾能景を見るようになってきます。同時に越後守護房能は国内で次第に浮き上がった存在になりました。これが後の為景(能景の息子)による主殺しに通じるのです。国人の支持が無ければ為景とてこのような暴虐ができるはずありません。越後の下克上は時代の必然だったのかもしれません。

 話を能景に戻しましょう。能景は守護房能としばしば対立しつつも守護代としての分を守る良識は持ち合わせていました。関東では山内(やまのうち)上杉氏と有力庶家扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の対立が先鋭化し合戦が起こります。扇谷上杉朝良(ともよし)は、養父定正が家宰太田道灌を暗殺して以来衰退していた家を立て直し、駿河今川氏親、その重臣伊勢宗瑞(後の北条早雲)と結びました。

 永正元年(1504年)、武蔵国立河原(東京都立川市)で山内上杉軍と扇谷上杉軍が激突します。山内上杉軍には越後守護房能が加わり(ただし実際に兵を率いていたのは守護代長尾能景)、扇谷上杉方には今川氏親の援軍を率いた伊勢宗瑞がいました。これを立河原の合戦と呼びますが、結果は山内上杉方の大敗。二千もの戦死者を出したと言います。

 実は能景の越後勢は直接合戦には参加しておらず、行軍途中だったそうです。越後勢の到着前に戦端を開いた扇谷上杉方の作戦勝ちでしょう。その頃顕定は北武蔵の鉢形城を本拠としていたそうですが、新手の越後勢が鉢形城に入ったのを見て扇谷勢は追撃を諦め河越城に戻ります。顕定は能景と共に軍を率い河越城を囲んだそうですから、立河原の敗戦はそれほど大きな影響が無かったのでしょう。上野国を完全に固め武蔵の北半国を勢力圏とする山内上杉家と越後一国を完全に支配し北信濃も勢力圏とする越後上杉家の連合勢力は強大でした。

 一方、扇谷上杉家相模国と武蔵の南半国のみ。しかも伊豆を強奪した伊勢宗瑞は、相模への野心を示し始めていました。結局この戦は痛み分けに終わります。しかし交渉の結果扇谷上杉朝良が降伏する形となりました。

 長尾能景は、関東が解決すると今度は越中への出兵を命じられます。一向一揆越中でも蜂起し越後へ侵入の気配を見せたのです。永正三年(1506年)般若野(富山県砺波市)の合戦が起こります。これは越中守護畠山尚順の要請だったようですが、越後勢は優勢に戦を進め加賀国境に近い砺波郡まで進軍します。このまま砺波郡を制圧すれば越前の朝倉氏と連合して一向一揆の本拠地加賀を一気に覆滅できるはずでした。

 般若野でぶつかった両軍ですが、越中の国人神保慶宗が一揆勢と内通し戦線を離脱します。敵中で孤立した長尾勢は一揆方の集中攻撃を受け能景は討死しました。為景はこれを神保慶宗の裏切りのせいだと考え仇敵視したそうです。

 父能景の戦死を受け守護代を継いだ長尾為景(1489年~1543年)は、この越中出兵に同道していたかどうか不明ですが、一揆に呼応して蜂起した越後中郡の反乱鎮圧に向かいます。五十嵐、大須賀、石田、高家の一党を降した為景は、いまや越後国内一の実力者となりました。実際に軍を率いているのですから当然です。面白くないのは主君越後守護上杉房能でした。


 次回、為景の主殺しと越後掌握を描きます。