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越後長尾氏の興亡Ⅲ   邦景と実景

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家系図武家家伝播磨屋さんから転載

 正長元年(1428年)関東公方足利持氏越後国侍に対し鎌倉府に忠節をつくすよう御教書を送ります。越後守護代長尾邦景はさっそく幕府にこれを報告し将軍義教から「無二の心」と褒められ太刀一腰を与えられました。越後上条上杉氏の祖で越後守護上杉房方の末子、そして実兄で嫡流山内上杉氏を継承していた憲実の隠棲後関東管領職を務めた上杉清方(当時の越後守護房朝の叔父)は、邦景の申請で将軍義教に忠誠を誓います。
 
 この辺り関係が複雑で説明が難しいのですが、越後守護上杉氏と関東管領・上野守護宗家山内上杉氏が一体化していたと思っていただいて間違いありません。そして長尾一族の中でも越後長尾家、その嫡流府中(三条)長尾家の発言力が増していたのです。中央において阿波下屋形細川家の家宰にすぎない三好氏が、細川氏全体の家宰として細川京兆家を含む主家を凌ぎ大きな権力を握った事と構造的には似ています。
 
 邦景は、幕府の命令で越後国衆を率い関東への出兵を繰り返します。越後守護代にすぎない邦景は、さながら幕府の直臣のようでした。永享七年(1435年)邦景はついに上洛を果たします。将軍義教はこれを歓待しました。義教にとっては持氏派を切り崩すために利用しただけでした。義教は邦景に信濃の持氏派を討つよう命じます。この動きを見て甲斐の武田信長も幕府方につき持氏派は次第に追い詰められていきました。
 
 永享十年(1438年)、上杉憲実の鎌倉退去を機に犬懸上杉持房(禅秀の子)、扇谷(おうぎがやつ)上杉持朝を大将とする幕府軍鎌倉公方持氏打倒を目指し動き出しました。永享の乱の始まりです。越後勢を率いこれに参加した長尾実景(邦景の子)は、上杉憲実に従って武蔵府中に進み決戦を渋る憲実を励まし強硬な主戦論を唱えました。
 
 翌年2月、鎌倉公方足利持氏は幕府の大軍を本拠鎌倉に受けて敗北自害します。これで一旦鎌倉公方家は滅亡しました。ところが持氏の子は何人か生き残り、そのうち春王丸、安王丸は下総の豪族結城氏朝に保護されます。氏朝は二人を奉じて挙兵したため幕府軍との間に結城合戦が起こりました。この時も長尾実景は越後勢を率いて参陣し大活躍します。春王丸、安王丸を捕えたのも実景でした。
 
 義教は、実景を激賞し赤漆の輿に乗る事を許し幕府直臣の待遇を与えます。この頃が邦景、実景父子の絶頂期だったと思います。春王丸、安王丸護送の任務は実景に与えられ義教の命で美濃垂井の宿で両名を処刑したのも実景でした。
 
 得意の絶頂にある長尾邦景、実景父子にとって青天の霹靂とも言える大事件が起こります。将軍義教が戦勝気分に浸っていた嘉吉元年(1441年)6月、家臣の赤松満祐によって暗殺されたのです。所謂嘉吉の変と呼ばれる事件でした。将軍義教の死で、邦景実景父子の立場は微妙になります。
 
 宝暦元年(1449年)、越後守護上杉房朝が亡くなりました。享年29歳。後任の越後・信濃守護には上条上杉清方の子房定が選ばれます。これをみても越後上杉氏と山内上杉氏が一体化しているのが分かります。実態としては越後上杉家が主で、宗家山内上杉氏に養子を出して関東管領職を継がせるという形です。
 
 守護となった房定は、他の関東諸氏と共に足利持氏の末子永寿王(のちの成氏)を鎌倉公方に就ける運動を続け、ついに幕府に承認させます。こうなると邦景の立場は無くなりました。新公方になった足利成氏関東管領山内上杉憲忠(憲実嫡男)との対立が先鋭化すると、穏健派の憲忠の意に反し山内家家宰長尾景仲、扇谷家家宰太田資清が成氏の鎌倉の屋敷を襲撃しますが、邦景もこれに加わります。
 
 中立派の越後守護上杉房定は、邦景の勝手な行動に怒り越後に戻って邦景を切腹させました。実景は信濃に逃れ再起を図ります。幕府は房定に謀叛人実景の討伐を命じました。結局邦景、実景の幕府に対する忠節はこの程度だったのです。単に義教に利用されただけに過ぎませんでした。
 
 実景は信濃の軍勢を糾合し根知谷口から越後に攻め込もうとします。房定は越後、越中の軍勢を西頸城に集め迎え撃ちました。結果は実景方の大敗。越後守護代には実景の従兄弟頼景が就任し以後彼の子孫が府中長尾氏の嫡流になりました。
 
 関東では鎌倉公方成氏が父の仇として関東管領上杉憲忠を殺します。亨徳三年(1454年)の出来事でした。これをきっかけに再び関東は以後三十年にもわたる亨徳の乱が勃発します。この戦乱で兄憲忠の死後関東管領職を継いでいた房顕も戦死したため、越後守護房定の次男顕定が山内上杉氏の養子に入り関東管領、上野守護職に就任します。
 
 この頃長尾実景は、京都に赴き将軍義政に哀訴していたそうですが義政は房定に対し「実景が京都をうろつくようであれば厳しく処分しよう」と約束しましたました。幕府のために働いた実景は哀れでした。結局幕府からも見捨てられたのです。実景の最期ははっきりしません。再び信濃に戻り挙兵するも敗死したと伝えられます。
 
 関東の乱は、越後にとっては守護代府中長尾氏の衰退をもたらし、相対的に越後守護上杉家の権力を盤石なものにしました。越後守護房定は実の息子顕定を関東管領・上野守護に据えさながら嫡流山内上杉氏の棟梁という形になります。
 
 室町幕府も房定の勢いを恐れ文明十八年(1486年)従四位下相模守に任じました。日本史に詳しい方ならご存知だと思いますが、これは武家では北条得宗家のみに許された官位でいかに破格の待遇か分かります。房定は賢太守と称えられますが、それは多分に房定の威勢を恐れてのものだったと思います。房定の時代が越後守護上杉家の絶頂期でした。
 
 
 次回は、越後守護上杉家の衰退と府中長尾氏の復活、台頭を描きます。