御館の乱の間も越中では織田軍の侵攻が続いていました。上杉家の越中松倉城代河田長親は妻の父が景虎方の北条高広で叔父河田重親も景虎に味方していたため最初は中立を保ちます。信長は長親に対し「味方に付けば越中一国を与える」と誘いますが、長親はこれを断り景勝に味方して越中戦線を守り抜きます。
信長は、御館の乱の大勢が決した後も景虎方の神余(かなまり)一族に誘いの手を伸ばしていました。神余氏が最後まで抵抗したのも織田家の加勢を当てにしての事だと思います。信長の凄みはもともと景勝方だった揚北衆の新発田重家すら裏切らせた事です。このように信長は絶対有利な状況でもさらに敵を追い詰め勝利を確実なものにしました。
天正九年(1581年)河田長親は松倉城で病死します。越中における織田家に対する最後の支えがなくなりました。織田勢はこの機を逃さず攻勢を強めます。上杉方は越中に残された最後の拠点魚津城に立て籠もりました。柴田勝家率いる織田勢四万、一方魚津城の上杉勢四千弱。誰が見ても落城は時間の問題でした。
その頃景勝は、領内で新発田重家の反乱に悩まされながらも魚津城救援のため一万の兵を率い越中に入ります。天正十年六月、破局は刻一刻と迫りつつありました。上野では関東管領滝川一益が越中への侵攻を準備し、川中島の森長可勢五千はすでに越後に侵入し春日山城に到着寸前でした。上杉方は決定的に兵力不足でした。恐らく景勝自身も内心ではもう駄目だと覚悟していたはずです。
魚津城は六月三日、ついに陥落します。山本寺孝長、吉江宗信ら上杉方の主だった将は自害しました。魚津城攻略の酒宴に沸き立つ織田勢に驚愕の報告が入ります。さる六月二日、主君織田信長が家臣明智光秀のために京都本能寺で襲撃され亡くなったというのです。驚愕した織田勢は、すぐさま兵を引きます。しかし富山城には勇将佐々成政を残し上杉方に付け入る隙を与えませんでした。上杉勢も追撃する余力などなく、ただ信長の死去に安堵するのみです。
ギリギリのところで滅亡を免れた上杉景勝。しかしなお新発田重家の反乱は継続していました。おそらく信長が本能寺で死んでいなかったら武田勝頼と同様景勝もこの時滅んでいたでしょう。皆さんは直江兼続の名前がなかなか出てこない事にお気づきでしょうか?実は兼続の名前が歴史に出てくるのは御館の乱で景勝が勝利した後。それまでは上田長尾氏の家臣樋口与六でしたから陪臣の身ではどう足掻いても活躍は無理です。
景勝が上杉家の当主となったために、側近の兼続にもようやく陽が当たり始めました。最初は外交官として活動します。本能寺の変の後織田家では跡目争いが起こりました。羽柴秀吉は天正十一年(1583年)賤ヶ岳の合戦で柴田勝家を破り織田家の実権を握ります。秀吉はそのまま越前に入り北ノ庄で宿敵柴田勝家を滅ぼしました。勝家方の佐々成政は秀吉に敵対を続けました。
そこで秀吉は背後の上杉景勝に目をつけます。成政を挟み撃ちすべく秘かに越後に使者を送りました。使者は石田三成です。上杉家では直江兼続が応対しました。信長の死後、関東中部では信長の遺領を巡る天正壬午の乱が起こります。景勝もこれに関与していたのですが、秀吉といち早く結んだのは先見の明でした。
兼続と三成は初対面にもかかわらず意気投合し友情を結びます。おそらく互いに才気タイプで馬が合ったのでしょう。最初は秀吉との同盟を結び、秀吉の勢力が大きくなってくると臣従しました。上杉家の実力から言ってこれは妥当な判断だったと思います。逆に秀吉の力を見誤った北条氏は滅ぼされる事となります。
小牧長久手の戦い、その後の秀吉による越中攻めにも景勝は背後を固め秀吉を助けました。天正十四年(1586年)六月、景勝・兼続主従は上洛し秀吉に拝謁します。景勝は従四位下左近衛権少将に叙せられ兼続もまた従五位下山城守に任ぜられました。これで上杉家は完全に豊臣政権に組み込まれます。
実はこの時もまだ新発田重家の反乱は続いていました。重家が何故ここまで抵抗できたかですが、実は背後の伊達輝宗が信長と結び支援していたからです。伊達氏が蘆名氏と抗争を始め援助が止まったことでようやく重家は苦しくなってきました。天正十二年秀吉の支援を受けた景勝は一万の兵を率いて出陣します。新発田勢と当時湿地帯だった要地新潟を巡り激しく戦いました。豪雨が発生し上杉勢は敗北します。
上杉方は、信濃川の支流中ノ口川を土木工事で開削することで氾濫を治め新発田勢を撤退に追い込めました。これは兼続の策だと言われますがはっきりとは分かりません。上杉勢は重家を本拠新発田城に追い詰めました。籠城する新発田勢ですが兵糧が尽きたためについに落城します。重家は最後の日、酒宴を催し自ら兵を率いて打って出、討死しました。6年にもわたる長き戦いの終焉でした。
謙信時代、数カ国に渡る領国を持ち大きな力を誇った上杉家ですが、御館の乱とこの新発田重家の乱で国力はぼろぼろとなります。とても他国に進出できる状況ではありませんでした。その領土も越後一国に縮小します。それでも秀吉に臣従したことで家名は残せました。天正十七年(1589年)には本間氏を討って佐渡攻略、出羽へは最上義光との激しい攻防のすえ庄内三郡を獲得します。これも秀吉の許可、あるいは黙認が無ければ不可能でした。信濃川中島四郡も貰い合わせて九十万石の所領となります。
天正十八年(1590年)の小田原攻めでは豊臣方の北陸方面軍主力として前田利家と共に関東に侵攻、小田原の北条氏政、氏直父子を滅ぼす原動力となります。皮肉な事に謙信の悲願だった北条氏打倒は景勝が秀吉に臣従して初めて実現したのです。もちろん豊臣政権下では関東管領という室町幕府の古い役職は存在しません。上杉とは名乗るものの、正当な関東管領である山内上杉憲政を殺している景勝には関係ない話でした。おそらく景勝は最後まで上田長尾氏当主という意識だったかもしれません。
上田衆の悲願だった宿敵栖吉長尾氏を滅ぼし、越後長尾氏の嫡流を上田長尾家へ持ってくる事に成功したのです。景勝は非業の最期を迎えた父政景を思い出す事もあったでしょう。最後に小田原役後の上杉家を語ります。文禄元年(1592年)朝鮮出兵では五千の兵を率い渡海しました。これは東国大名では珍しく、それだけ景勝が秀吉の信頼を得ていたのでしょう。文禄四年には小早川隆景隠居に伴い空席になった五大老に就任。
関東に転封された徳川家康の抑えとして会津を領していた蒲生氏郷が急死すると、徳川への抑えとして景勝が浮上しました。慶長三年(1598年)秀吉は上杉家に対し会津への転封を命じます。旧蒲生領に庄内三郡、佐渡を合わせ120万石の大大名となりました。会津転封の話を聞いた時上杉家中では関東により近くなると喜んだそうですがすでにそういう時代ではありませんでした。おそらく実際は父祖の地である越後を離れる事を皆嫌っていたはずで、直江兼続あたりが秀吉に無用の猜疑心を起こさせないために流した話かもしれません。兼続は特に秀吉の命で米沢30万石を領する事となりました。
その後、秀吉死去。景勝は家康と対立し会津征伐、関ヶ原合戦へと時代は進みます。石田三成を首謀者とする西軍は敗れ三成と同盟していた(と言われる。はっきりとした証拠はない)上杉景勝は、改易の危機を迎えました。関ヶ原における上杉家の戦いについては書く機会もあると思いますが、ここでは簡単に紹介するにとどめます。
上杉家は、兼続が家康へ陳弁に努めたため存続を許され兼続の領地だった米沢30万石に減封されました。1341年長尾景忠の越後侵攻から始まった越後長尾家。会津転封が1598年ですから257年の歴史です。この間主家越後上杉家も山内上杉家も滅びました。景勝が継いだ上杉家は、謙信から始まる新しい上杉家です。上杉家は米沢で紆余曲折がありながらも幕末まで続きます。景勝の去った越後は、多くの大名家に分割され近世を迎えました。そして越後は新潟県となっていくのです。
(完)