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越後長尾氏の興亡Ⅷ   景勝の章(前編)

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 戦国時代の巨星上杉謙信の死は越後のみならず上杉領国全体に衝撃をもたらしました。通常なら実子が家督を継ぎ領国を引き継ぐのですが、謙信には実子がいなかったのです。謙信には二人の養子がいました。一人は、実姉仙桃院と上田長尾政景との間に生まれた喜平次景勝。もう一人は北条氏康の七男景虎です。生前、謙信は越後国主の地位を景勝に譲り景虎には関東管領職を与える予定でした。

 景虎は北条家から迎えた養子なので、謙信の血縁(姉の子)である景勝ですんなり決まるはずです。ところがそう上手くいかないのは景勝が謙信に最後まで敵対した上田長尾政景の子だという事でした。謙信政権を実質的に誕生させたのは上田長尾家と並ぶ有力庶家栖吉長尾家で当主景信は上杉の姓まで貰っていました。

 栖吉長尾家と上田長尾家は仲が悪く合戦騒ぎも過去に起こしているくらいですから、一門筆頭の景信は真っ先に景虎支持を表明します。宿敵上田衆が担ぐ景勝に跡目を継いでもらっては困るのです。景信の動きを見て上野厩橋城主北条高広・景広父子、同沼田城主河田重親、越後鮫ヶ尾城主堀江宗親、栃尾城主本庄秀綱、三条城主神余(かなまり)親綱らが同調しました。これに景虎の実家北条氏政景虎の兄)、武田勝頼蘆名盛氏などが後援します。

 景勝側には、与板城主直江信綱(景綱の娘船と結婚して直江姓を名乗る。総社長尾家出身)、河田長親(重親の甥)、斎藤朝信ら謙信の側近たちが味方に付きました。越後永遠の反体制勢力揚北衆も景勝に味方します。上条上杉政繁も景勝側。ここで景勝の腹心とも言うべき直江兼続の名前が無いのに気が付かれるでしょう。本来兼続は宿老直江景綱とは何の関係もありません。当時は樋口与六と名乗り上田長尾家の家来でした。幼少期から景勝につき従っていたため側近となっていたのです。

 兼続が直江姓を名乗るのは、景綱の婿養子信綱が天正九年(1581年)春日山城内で非業の死を遂げ未亡人となった船と再婚してから。景綱の婿養子となり名門直江家を継ぎます。この時の兼続の立場は、景勝に従って春日山城に入っていた上田衆を束ねる役目で、軽輩と言っても良い身分でした。

 天正六年(1578年)三月謙信の正葬も終わらぬ中、景勝は機先を制し春日山城の本丸を制圧し城の金蔵と兵糧を確保しました。出遅れた景虎は、本丸に入ろうとして上田衆の鉄砲に阻止されます。仕方なく景虎は城を出て府中上杉憲政の屋敷(御館)に入って憲政に保護を求めました。景虎が御館を本拠としたのでこの乱を御館の乱と呼びます。

 越後を二分した大乱で両軍は各地で激しい戦闘を繰り広げました。国内的には景勝が優勢でしたが、景虎には北条氏、武田氏が付いていたため勝敗の行方は分かりません。六月、北条氏政は妹婿武田勝頼信越国境への出兵を依頼します。景勝絶体絶命の危機です。景勝側は、勝頼に上野における上杉領を割譲するなど大幅譲歩した和睦案を提示しました。景勝の正室に勝頼の妹菊姫を迎える条件で和睦が成立。勝頼にとって景虎側が勝っても北条氏の勢力が伸びるだけで自分には何のメリットもなかったので、景勝側は勝頼の心理をうまく衝いたのでしょう。武田勢が介入から手を引いた時点で景勝側に有利となりました。武田氏は中立を宣言しても、北条氏政としては危なくて越後に遠征などとてもできないからです。留守中に攻められる可能性がありますからね。

 六月十一日、居多浜の戦いで景勝方の有力武将上杉景信が景勝側の山浦国清と戦って討死しました。栖吉長尾家は彼の死によって断絶します。家督河田長親が継ぎますが、長尾姓を名乗らなかったため栖吉長尾家は完全に消滅しました。伊達輝宗蘆名盛氏の援軍も撃退され大勢は景勝有利に傾きます。

 八月徳川家康が武田領駿河に侵攻、勝頼が身動きとれなくなったのを見て九月ようやく北条氏政は弟氏照・氏邦を大将とする軍勢を越後に送り込みました。ところが景勝の本拠坂戸城は頑強に抵抗し北条勢は攻めあぐねます。冬が到来し北条勢はぐだぐだのうちに撤退しました。結局北条方も越後情勢など他人事だったのでしょう。景虎方には最後のチャンスでしたが、これも潰えます。

 翌天正七年(1579年)二月、景勝は御館に籠城する景虎勢に総攻撃を開始しました。上杉憲政は和睦を求め景虎の長子道満丸を伴い景勝の陣に赴きます。ところがそこで道満丸と共に斬られました。関東管領山内上杉家嫡流最後の当主上杉憲政非業の死です。御館は景勝勢によって火を掛けられ景虎は辛くも脱出し鮫ヶ尾城に逃げ込みました。ところが鮫ヶ尾城主堀江宗親はすでに景勝側に寝返っており堀江勢に攻められた景虎は二十四日、自害して果てます。亨年27歳。

 御館の乱は景勝の勝利に終わりますが、本庄秀綱、神余親綱らは抵抗を続け完全に乱が鎮圧されたのは天正八年(1580年)でした。こうして越後国主の地位を奪取した上杉景勝ですが、前途は多難です。まず北陸では織田信長重臣柴田勝家を大将とし上杉方の属城を次々と攻め落としていました。もともと上杉領となって日が浅い加賀、能登は瞬く間に織田方に奪われます。越中が上杉家最後の防衛戦でしたが、信長は越中に所縁の神保氏などを送り込み扇動させました。

 越中に入った織田勢は四万を数えます。そして天正十年(1582年)十七万という空前の大軍を動員した織田信長によって武田勝頼が滅ぼされました。戦後、上野には関東管領職を拝命した滝川一益が、北信濃には川中島四郡を貰った森長可と織田方が越後の西、南、東を囲みます。絶体絶命の危機でした。

 景勝はどのように危機を脱するのでしょうか?次回越中における上杉・織田の戦いと景勝の会津転封までを描きます。