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越後長尾氏の興亡Ⅶ   謙信の章(後編)

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 永禄四年(1561年)第四回川中島の合戦は、その後の中部・関東地方の情勢を決定づけた戦いでした。上杉謙信は、府中に近い北信濃を失った事で、宿敵北条氏康の本拠小田原城に長駆遠征できなくなります。難攻不落の小田原城を攻めている間に、もう一人の宿敵武田信玄に本拠府中を攻められるからです。以後、謙信の関東における活動範囲は上野を中心に武蔵北部と下野西部に限定されました。

 これは信玄・氏康の作戦勝ちだったと言えます。信濃を完全に制圧したい信玄と関東における謙信の活動を抑えたい氏康の利害が一致した結果でした。川中島の戦いが終わって二カ月後、早くも氏康は行動を開始します。謙信は戦いの傷も癒えぬまま再び関東に出陣せざるを得ませんでした。
 
 氏康が巧妙なのは、関東の戦いにも信玄を引き込んだ事です。氏康は、上野攻略の野望を諦めたかのように見せ、信玄に西上野出陣を促します。おそらく氏康の本心は、難敵謙信を武田勢に丸投げし自分は武蔵を完全に固め下総・上総方面に進出しようという考えだったように思います。永禄七年(1564年)、川中島最後の戦いとなる第五回合戦も上杉武田両軍は睨みあいに徹しました。

 永禄七年という年は、もう一つ大きな事件が起こります。上田長尾政景の事故死です。野尻湖宇佐美定満と舟遊び中船が転覆して両者溺死したというものでした。野尻湖と言えば信州が有名ですが、戦場真っただ中での舟遊びは考え辛く、政景の本拠坂戸城近くの野尻湖南魚沼市)あるいは宇佐美定満の居城琵琶島城近くの野尻池が舞台だったという説が有力です。

 政景の死亡は、暗殺説が有力で謙信が首謀者とも言われます。ただ謙信にそこまで政治力があったかは疑問で宇佐美定満の単独犯行説、あるいは定満と謙信家中(謙信本人は知らず)の合意のもとでの犯行だとされます。降伏はしたものの潜在的敵である政景が、謙信にとって邪魔になってきていたことは事実で謙信には事後承諾だったというのが真相かもしれません。実は定満には政景を殺す動機は十分ありました。彼の父とその一族は、政景とその父長尾房長によって殺されたからです。ただしこの戦いの首謀者は謙信の父為景でした。まさかこれで謙信を恨むわけにはいきませんから憎しみの矛先を政景に向けたのでしょう。

 謙信を越後国主に引き上げた栖吉長尾景信は、謙信が上杉姓を継ぐ時同じく上杉姓を拝領しています。しかし謙信に最後まで反抗した長尾政景は、一門でありながら上杉姓を貰えず長尾氏のままでした。政景は、降伏後は謙信に対し二心無く仕えますが、その存在自体が謙信にとっては疎ましかったのかもしれません。

 上田長尾氏の家督は幼い嫡男景勝が継ぎます。景勝の母は謙信の実の姉仙桃院で、血を分けた甥であれば反抗すまいという思惑が謙信家中にあったことは間違いありません。しかも念が入った事に、景勝は謙信の養子として春日山城に留め置かれます。体の好い人質でした。これでは上田衆は絶対に上杉家を裏切れないでしょう。

 信玄は順調に西上野を攻略し、箕輪城の長野業盛を滅ぼします。長野氏は山内上杉家臣で上野における謙信の有力与党でした。武田勢はそのまま東に進み上野南部を完全に平定します。上野に残された謙信の領土は沼田城以北という寂しいものになりました。

 八方ふさがりの謙信でしたが、永禄十年(1567年)風向きが変わり始めます。武田信玄三河徳川家康と同盟して今川領の駿河へ侵攻を開始したのです。それまで武田今川北条は婚姻を通じて同盟を結んでいました。ところが今川義元桶狭間で横死し凡庸な氏真が後を継ぐと、信玄は今川領に野心を抱きます。氏真の妹を正室に迎えていた嫡男義信は強硬に反対しますが、逆に信玄の怒りを買い切腹させられました。

 信玄の背信行為で、北条氏康も武田家と断交します。敵の敵は味方という事で、謙信と氏康は同盟しました。謙信にとっては窮状を打開する策だったのかもしれませんが、彼の本来の目的関東管領として北条氏を滅ぼすという事からすれば、綺麗事を廃し現実を見て信玄と同盟して氏康を叩くべきだったかもしれません。氏康と結んだことで、謙信に期待する関東諸将の心は離れました。常陸の佐竹氏などは、謙信を見限り信玄と同盟します。

 結局、本末転倒の氏康との同盟は元亀二年(1571年)氏康の死と共に消滅します。後を継いだ氏政は父氏康の遺言通り上杉家と断交し再び信玄と結びました。謙信は、北条氏との同盟期間露骨に関東に攻め入る事はできずその矛先を越中に向けます。武田信玄の脅威をそろそろ感じ始めていた織田信長が謙信と接触してきたのもこの頃でした。

 越相同盟が結ばれていた元亀元年(1570年)謙信は氏康の七男氏秀を養子に迎え景虎と名乗らせました。これも実質的には人質でしたが、自分の元の名前景虎を与えたという事は謙信が彼を気に入ったという事でしょう。面白くないのは同じ養子の景勝とその実家上田長尾氏でした。

 元亀二年(1571年)二月、謙信は二万八千の兵を率いて越中に侵攻します。椎名康胤の富山城を攻略し松倉城守山城も攻めました。康胤は越中一向一揆と結んで謙信に抵抗します。上杉勢と一向一揆越中を巡って激しく戦いました(越中大乱)。結局謙信が越中を平定できたのは天正四年(1576年)です。

 その間、関東への出兵も繰り返し謙信は文字通り東奔西走しました。謙信永遠の宿敵武田信玄は、西上を図り遠江三方ヶ原で徳川・織田連合軍を破り三河野田城を攻略しますが、行軍途中病にかかり元亀四年(1573年)四月53年の生涯を終えていました。後を継いだ勝頼は天正三年(1575年)三河設楽ヶ原(したらがはら、一般には長篠合戦と呼ぶ)で織田徳川連合軍三万八千に自慢の騎馬隊を壊滅させられます。この時信長は三千挺の鉄砲を準備し火力で武田勢を圧倒しました。

 謙信が信長を意識したのはいつでしょう?最初は信玄に対する牽制の意味で近付いたのかもしれません。しかし、上洛を果たした信長は畿内を中心にこの時すでに四百万石を超える巨大な勢力となっていました。勝頼からも泣きつかれた謙信は信長との決戦を意識し始めたのかもしれません。天正四年(1576年)九月、謙信は越中守護代椎名康胤を討ち取り越中を平定します。そのまま隣国能登に進みました。

 能登七尾城は、能登守護畠山氏の本拠でしたが当主春王丸が幼少だったため重臣長続連(ちょう つぐつら)、綱連父子が実権を握っていました。続連は織田信長と結び謙信に徹底抗戦します。結局七尾城の戦いは翌天正五年九月まで続きました。難攻不落の七尾城はなかなか落城せず、謙信は重臣遊佐続光を内通させて内部から反乱を起こさせようやく攻略します。

 この時、信長は七尾城への援軍として柴田勝家を大将とする五万の大軍(四万という説もあり)を送っていました。ところが加賀に入った頃七尾城落城の報告が織田軍に持たらさせます。援軍の意味が無くなったので織田軍は撤退を考えていました。ところが織田軍接近の報を受けた謙信は、すぐさま加賀に入り手取川で撤退準備に入っていた織田軍を捕捉します。この時の上杉勢は三万五千を数えたと言われますが、もともと戦意の無い織田軍は不意を衝かれ多数の溺死者を出して潰走しました。

 歴史のIFですが、この時謙信が織田軍を追撃していれば信長の運命はどうなったか分かりませんでした。しかし謙信は越前国境で軍を返します。私は、謙信は天下への意志などなくあくまで関東管領として関東平定を最終目標にしていたのだと考えています。でなければこの時の撤退の理由が説明できません。古いタイプの大名だと言ってしまえばそれまでですが、関東管領職と上杉の名跡を継いだ時点で彼の人生目標は決していたと見るべきでしょう。

 謙信は本拠春日山城に帰り、関東への本格進攻を見据え新しく獲得した越中能登、加賀も含め大動員令を発します。翌天正六年(1577年)三月、雪解けを待って関東入りを目指していた謙信は突如厠で倒れました。脳溢血だったとも言われます。亨年49歳、不世出の英雄のあっけない最期でした。



 次回最終回、謙信死後の家督争い御館の乱を制した景勝、信長の越後侵攻、景勝が豊臣大名に組み込まれ越後を去るまでを描きます。