鳳山雑記帳はてなブログ

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越中における佐々成政Ⅴ   末森城の決戦

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 ようやく越中を統一した佐々成政。しかし歴史はすでに彼の預かり知らぬところで大きく動き始めていました。
 
 天正十一年(1583年)四月、賤ヶ岳の合戦で柴田勝家を破った羽柴秀吉はそのまま北上して越前に入ります。同年四月二十八日柴田勝家とその妻お市の方は北の庄城で自害。五月には降伏した前田利家の案内で加賀国に入り大軍をもって越中佐々成政を威圧しました。そのころ成政は斎藤氏や土肥氏など国人一揆の鎮圧の真っ最中でしたから秀吉の大軍と戦う余裕はなく、使者を送って和議を請います。
 
 秀吉は、「佐々殿に異心のないことはよく分かった」と王者の余裕を見せこれを許します。実際秀吉も、越中攻めに手間取り長い間上方を留守にすれば背後で反秀吉勢力が蠢動しかねずそれを恐れたのでしょう。この時前田利家は「佐々成政は危険人物だからこの際討つべきです」と秀吉に進言したそうです。自分は勝家を裏切っておいてよく言えるものだと苦笑しますが、逆にいえば利家はそれだけ成政の器量を恐れていたとも言えます。
 
 秀吉は、本能寺の変で主君織田信長を討った明智光秀を山崎の合戦で滅ぼし、織田家筆頭家老の柴田勝家を賤ヶ岳で撃破し着々と天下人の道を歩み始めていました。柴田勝家らに織田家の跡目と期待された信長の三男で才気のあった信孝を自害に追い込み、自分は信長の嫡男信忠の忘れ形見三法師を擁し独裁を開始します。
 
 実は信長の子にはもう一人伊勢・尾張を領する次男の信雄がいたのですが、最初秀吉はこれを舐めていました。というのも信雄は凡庸かつ優柔不断な人物でとても織田家家督を継げるような人物ではなかったからです。秀吉は、無能な信雄を徹底的に利用し主筋の信孝に切腹を命じる時も信雄の名前を持ちだしたくらいでした。
 
 しかし、ここまで馬鹿にされてはさすがに信雄も怒ります。といっても単独では強大な秀吉に対抗できないので、その頃三河遠江駿河の他に甲斐・信濃に勢力を拡大していたかつての信長の盟友徳川家康に泣きつきました。
 
 天正十二年(1584年)三月、信雄・徳川連合軍はついに挙兵し尾張北部に進駐。これに対し秀吉もすぐ反応し6万(8万、10万という説もあり)の大軍を集めて対峙します。連合軍の兵力は2万弱。まともに戦っては勝ち目がないので連合軍は小牧から長久手の線に長大な防衛陣地を築きました。これが史上名高い小牧・長久手の戦いです。
 
 にらみ合いが続く中、最初に動き出したのは秀吉方でした。四月、池田恒興森長可らは秀吉の甥秀次を名目上の総大将に押し立て2万の兵力で連合軍の陣地帯を迂回し家康の本国三河を衝く作戦を開始します。兵法用語でこれを「中入り」というそうですが、余りにもリスクが高く秀吉は最初これを許可しませんでした。ところが秀吉の軍は寄せ集めの悲しさ、秀吉の元同僚である池田恒興の強硬な申し出に渋々同意せざるを得なかったのです。そして案の定、この動きは家康に察知され奇襲するはずの池田・森勢は背後から接近した徳川勢に散々に撃ち破られ池田恒興・元助父子、娘婿の森長可まで討死するという大敗を喫しました。これに懲りた秀吉は、武将たちの軽挙妄動を堅く戒め陣地での睨み合いを続行します。
 
 
 佐々成政は、柴田勝家と同様古いタイプの武将でした。あくまで主家に忠義を貫く事こそ正義と考えたのです。客観情勢からいうと加賀・能登に秀吉派の前田利家、越後の上杉景勝も秀吉と誼を通じている中、本領安堵のために秀吉についても良かったはずです。ところが成政は、織田信雄挙兵の報を受けると一も二もなくこれに参加、自らも越中で兵を挙げます。
 
 秀吉もこの事を予測し、信頼する前田利家を加賀に残していました。利家と成政、この時の両者の勢力を見てみましょう。成政は越中一国50万石余。対する利家は加賀・能登二か国を領有。一見利家の方が大きそうですが実はこの二か国で50万石ほどしかありません。勢力的にはほぼ互角でした。ただし、すべての兵力を越中に振り向けられる利家と違って、成政は背後に上杉景勝を抱えての対峙でこの点不利だったのです。
 
 
 天正十二年(1584年)八月、越後の上杉への備えを施し成政は1万の兵を率いて西へ向かいました。目指すは能登南部にある末森城。地図を見てもらうと分かる通り、利家の領国はちょうど末森城のあたりが一番幅が細くなっています。ここを占領すれば能登と加賀を完全に分断する事が出来るのです。
 
 佐々軍は、利家が対佐々戦に備えて国境に築いていた朝日山砦(金沢市加賀朝日町)を奪取。九月には能登に入り要衝末森城(押水町竹生野)を奇襲しました。末森城は、加賀・越中能登の要に位置する標高138.8mの末森山に築かれた能登屈指の山城です。能登半島の最もくびれた場所に位置し日本海までわずか3キロ。
 
 前田利家もこの事を予測し、勇将奥村家福(まさとみ)を大将とする1500の兵力を置いていました。成政は末森城を南・西・東の三方から包囲します。成政軍には佐々平左衛門、佐々与左衛門、前野小兵衛、野々村主水、神保氏張らそうそうたる武将が参加しまさに佐々方が総力戦で当たった事が分かります。
 
 急報をうけた前田利家は驚愕しました。といっても兵力を集めていては間に合わないので手勢3千のみを率い末森城救援に北上します。この時前田軍の諸将は「今からの援軍では間に合いません。ここは秀吉公の援軍を待って佐々勢に当たるのがよろしいでしょう」と口々に諌めたそうですが、利家は全く取り合わず「人は一代、名は末代。命を惜しんで敵の侵入を黙って見ていられるものか」という有名な言葉を吐いて出陣しました。
 
 結局、この決断が明暗を分けました。利家の援軍が到着した時、末森城は成政の猛攻で本丸を残すのみになっていました。城兵もわずか300まで減っています。間一髪間に合ったのです。
 
 「利家の援軍来る」の報告を受けた成政は、前田勢が決死の覚悟で挑む気配を見せたためついに末森城攻略を断念します。しかしその撤退戦も見事でした。前田勢の追撃を上手くあしらいほぼ無傷で越中に帰りつくのです。以後北陸戦線も膠着しました。戦いは、主戦場である尾張終結しつつありました。秀吉は外交戦で信雄と単独講和し、大義名分を失った徳川勢も兵を引きます。一方越中では、秀吉の要請を受けた越後勢が侵入し成政と激闘を続けました。
 
 成政は、どうしても諦めきれず天正十二年冬猛吹雪を衝いて厳冬の飛騨山脈立山山系を越えて単身浜松の徳川家康を説得すべく移動します。しかし、家康は成政の壮挙を労いはしましたが挙兵の誘いを承諾する事はありませんでした。失意の成政は再び同じコースで帰途につきます。これを「さらさら越え」あるいは「成政のアルプス越え」と呼びます。
 
 
 天正十三年(1585年)、秀吉は自ら10万ともいわれる大軍を率いて越中に入りました。富山城は秀吉の大軍に囲まれ風前の灯でした。成政は、織田信雄の仲介で降伏。一命は助けられますが、新川郡を除くすべての領地を没収され妻子と共に大坂に移住させられました。
 
 
 その後、天正十五年(1587年)には九州征伐で功を挙げ恩賞として肥後一国を拝領。再び50万石の大大名に返り咲きます。しかし、間もなく起こった肥後国一揆の責任を問われ領地没収、天正十六年尼崎で自害、波乱の生涯を閉じました。享年52歳。