長尾景虎、すなわち後の上杉謙信は生涯で何度か名前を変えています。まず北条氏康に関東を追われ越後に亡命してきた上杉憲政から上杉家督と関東管領職を譲り受けて上杉政虎。上洛して13代将軍足利義輝から一字拝領して上杉輝虎。出家して上杉謙信。ディープな戦国ファンからはお叱りを受けそうですが、一般の読者の理解を助けるためにも、紛らわしいので上杉謙信で通します。
上杉謙信(1530年~1578年)は、父長尾為景死後湧きおこった兄晴景との家督争いを制し越後国主となりました。時の椎名家当主康胤は、自分の娘を謙信の従兄弟長尾景直に嫁がせるなど越後との連携を深めます。越後勢力の後ろ盾を得た椎名康胤は、富山城の神保長職を圧迫しました。長職も対抗上謙信のライバル甲斐の武田信玄と結びました。というより謙信勢力の背後をけん制するため信玄の方から接近したのが真実のようです。
永禄三年(1560年)、信玄の誘いを受けた神保長職は砺波郡の一向一揆と連合して椎名康胤の本拠松倉城を攻撃しました。康胤は慌てて越後に援軍を要請します。これに応えた上杉謙信は大軍を率いて来援、神保・一向一揆連合軍を撃破しました。神保長職は、平城の富山城では越後勢の猛攻を支えきれないと諦め、要害であった砺波郡の増山城(砺波市増山)に逃げ込みました。
長職は、「まさか神通川を越えてまで攻め込むまい」と安心していたようですが、謙信はかまわず軍を進め増山城の眼前に布陣します。予想外の越後勢の動きに、とても勝ち目がないと諦めた長職は増山城からも逃亡しました。肝心の長職がいなくなっては戦のしようがありません。越後勢は一旦本国に帰還します。ところが越後勢がいなくなると、長職はどこからともなくはい出てきて失地の大半の回復しました。逃亡の芸も才能の一つです。こういう姑息な戦法は義を旗印にする謙信が最も嫌うものでしたが、弱小勢力が生き残るのは並大抵のことではできません。その意味では長職の方がしたたかだったと言えるかもしれません。
神保長職の復活に烈火のごとく怒った謙信は、永禄五年(1562年)再び越中に進撃します。五福山(富山市)に籠城した長職でしたが、謙信が逃亡を警戒し逃げ出せないように囲んで猛攻したためついに抵抗を断念。謙信に降伏しました。神保氏を降した謙信は、憎き敵砺波郡の一向一揆に対する攻撃を開始します。ところがこれはあまり成功しなかったようです。
一応越中を平定した謙信でしたが、武田信玄の外交・謀略の才は謙信の上を行っていました。長年の上杉方だった椎名康胤に調略の手を伸ばしたのです。永禄十一年(1568年)隣国能登の家督争いの混乱に乗じ、信玄から越中一国の支配を認められた椎名康胤は、反上杉の兵を挙げました。翌永禄十二年、謙信は越中に兵を入れ康胤を攻撃します。本拠松倉城を追われた康胤は、砺波郡の一向一揆と結びこれと連合して上杉方が支配していた富山城を占領しました。謙信は自ら兵を率い富山城を攻撃、椎名康胤は越後勢に討たれ椎名氏は事実上滅亡します。椎名氏の居城松倉城には謙信の武将河田長親が入りました。
ところで謙信に降伏した神保氏はその後どうなったでしょうか?降伏後家名存続は許されたものの領土は大きく削られ家中は上杉恭順派と反上杉派に二分されます。中でも長職の嫡男長住がもっとも強硬な反上杉方で、長職が元亀三年(1572年)没すると、神保家は後を継いだ長住を中心に反上杉方が力を持ち始めました。これを放置しておいては上杉の越中支配に悪影響を与えるため、謙信は長住を攻めます。敗れた長住は越中を追放され最初は能登畠山氏を頼りました。ところがその能登も上杉謙信に征服されたため、長住は京都まで逃れ織田信長に仕えます。
信長は、長住が越中侵攻の大義名分になると利用価値を認め保護しました。天正六年(1576年)3月13日、一代の驍将上杉謙信は春日山城で48歳の生涯を終えます。死因は脳溢血説が有力です。謙信死すとの報告を受けると、信長の反撃が始まります。神保長住に若干の兵を与え飛騨経由で越中に侵攻させました。長住は、謙信の死で動揺する越中において国人の斎藤氏や二宮氏らを次々と味方につけ、瞬く間に増山城を攻略、越中西南部を平定しました。織田軍の援軍を加えた神保勢は、月岡野の合戦で上杉軍に大勝、富山城を奪還します。さらには松倉城、新庄城に攻めかかるなど押しまくりました。天正九年(1581年)織田軍の本隊として佐々成政が越中に入国すると、その指揮下に入ります。