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越中における佐々成政Ⅰ   前史 戦国時代の越中

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 現在の富山県にあたる越中国は、わずか四郡しかありません。それでいて太閤検地の数字で52万石、寛永期の加賀藩時代の数字だと73万石という堂々たる大国です。これは私見ですが、郡の数が少ないのはそれだけ国の開発が遅れたという事、一方52万石という石高はポテンシャルの高さを示すと思います。
 
 越中は礪波郡(となみぐん 西南部)、射水郡(いみずぐん  西北部)、婦負郡(ねいぐん 中央西部)、新川郡(にいかわぐん 東部、神通川より東半分)に分かれます。寛永期の数字から太閤検地当時の石高を推定すると、砺波郡17万石、射水郡11万石、婦負郡8万石、新川郡16万石となります。
 
 室町時代から戦国初期にかけて、越中国三管領家の一つ畠山金吾家(宗家)の守護領国でした。越中は大国で畠山氏が直接支配できないので守護代を派遣します。重臣筆頭の遊佐氏が砺波郡守護代、神保氏は婦負・射水郡守護代、椎名氏は新川郡守護代となり三家で越中を統治したのです。この中で、遊佐氏は畠山氏の本国河内の守護代、有力庶家能登畠山家(畠山匠作家の守護代も兼ねたので越中支配からは次第に離れて行ったようです。
 
 応仁の乱以後、越中神通川を境に西を神保家が、東を椎名家が支配するようになっていきました。ところが隣国加賀(石川県南部)で一向一揆が守護富樫氏を滅ぼし一国を支配するようになると隣接する砺波郡にも勢力を伸ばし始めます。神保・椎名両家とて、とても領国を完全支配するだけの力はなく国人(地侍)たちの盟主的存在にすぎませんでしたから、越中国は安定しませんでした。
 
 統一した勢力がなくかつ豊かな国が隣国の野心家たちから狙われるのは歴史の必然です。まず越中に触手を伸ばしたのは越後守護代長男為景(上杉謙信の父、1489年~1543年)でした。越後守護上杉房能を攻め滅ぼし、その養子上杉定実を傀儡の守護に押し立てた為景は、房能の実兄で関東管領だった山内上杉顕定の干渉を撥ね退け下剋上の越後支配者となります。
 
 野心家の為景は、統一勢力のいない隣国越中に目を付けました。永正十七年(1520年)、長尾為景は越後勢を率いて越中に攻め入り守護代椎名氏、神保氏を撃破。新川郡守護代に任じられます。ただ本国越後で反長尾勢力が蠢動したため、一時撤退。支配下に置いた椎名氏に新川郡守護代を委ねました。一方、神保氏は当主慶宗が越後勢に討たれたものの完全に滅亡したわけではなく、その息子(ただし異説あり)長職(ながもと)が婦負郡富崎城(婦中町)に拠って抵抗しました。長男為景の圧力が減ったため神保氏は着実に復興し、亨禄四年(1531年)には加賀に出兵するほど勢力を回復します。
 
 天文十二年(1543年)越後守護代長男為景死去による家督相続争いで長尾氏が越中に影響力を振るえなくなると、これを好機と捉えた神保長職は挙兵して神通川を越えました。神保勢は現在の富山市に当たる中新川郡に攻め入り、椎名氏を始め中新川郡の豪族土肥氏、さらには斎藤氏、鞍川氏をも巻き込む大騒乱が起こります。
 
 この時神保長職は、中新川郡支配の拠点として富山城を築城したといます。神通川を要害とし、他の三方を二重の堀で囲んだ平城でした。長職は、松倉城魚津市)を本拠とする椎名氏に対する備えとして築城したのです。
 
 神保、椎名両家の対立を発端とする越中大乱は、旧主家と繋がりのある能登守護畠山氏の調停で天文十三年(1544年)一応の決着をみます。ただこの調停は、神保氏の中新川郡支配を認めたもので神保長職は富山城に残ったので椎名氏にとって不満の残るものでした。椎名氏は隣国越後の長尾景虎(後の上杉謙信)の力を借りてこの現状を打破しようと考えます。
 
 
 次回は、長尾景虎越中支配と神保氏の没落、流浪の新保長住(長職の嫡子)を押し立てた織田信長越中侵攻を描きます。