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信濃の南北朝Ⅴ  信濃南北朝の終焉

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 室町幕府信濃守護小笠原氏は、本拠府中のある筑摩郡の他に伊那郡にかけて所領が分散していました。その他善光平の旧北条得宗領、国衙領を接収し佐久郡には一族の大井氏、伴野氏が勢力を張ります。守護方の有力武将村上氏や高梨氏、市河氏はほぼ川中島四郡(高井、水内、更級、埴科)が勢力範囲ですから、守護方は北信濃をほぼ制圧し、中信濃は松本平を中心とする筑摩郡、佐久地方の一部、南信濃伊那地方の一部を支配していた事になります。戦国時代の信濃の石高を40万石とすると、ざっとそのうち6割近く24万石位は掌握していたと思います。

 ですから宮方はどんなに頑張っても16万石、守護方の勢力を打ち砕かなければ劣勢のままでした。宮方の力が比較的強い諏訪郡小県郡は石高が少なく、宮方で一番石高が多かったと推定される伊那郡にも小笠原領が散在していたからです。山がちの安曇郡に関しては言わずもがなでした。

 南朝勢力がどうして信濃に集まってきたかですが、東海地方、北陸地方北朝勢力が強くなって活動できなくなってきたからです。まず東海地方では尾張国に尊氏の側近高師泰が守護として赴任します。後に尾張は足利一門でもっとも家格の高い斯波氏が入部し守護職を独占しました。駿河は、これも足利一門今川氏の牙城で守護として支配を固めます。三河は最初安定しませんでしたが仁木氏が守護となりました。

 遠江の有力な南朝方、井伊氏はあまりにも小さく宗良親王を擁して挙兵したものの高師泰仁木義長の軍勢に攻められ南朝方は隣国信濃に逃げ込まざるを得なくなります。そして遠江国を最終的に掌握したのは今川氏でした。

 北陸に目を転じると、最初新田義貞が越後守護となった事から北朝方は勢力を伸ばせない状況でした。ところが、新田氏の本拠上野国を制圧した鎌倉府執事上杉憲顕が越後に攻め込み形勢が逆転します。憲顕は越後守護も兼任し越後国内の新田一族の活動を抑え込みました。越中もまた足利一族の桃井直常が抑え守護になります。その他、美濃、飛騨も信濃と接しますが、これらは国境が峻嶮な山岳地帯で連絡は困難でした。

 信濃の周囲はことごとく北朝方が制圧し、このままでは南朝方は座して滅ぶしかなかったと思います。しかし1349年北朝の中で足利尊氏と弟直義の路線対立が深刻化し両者が争うという、所謂観応の掾乱が起こると状況は一変しました。尊氏は側近高師直を重用し、足利一族を蔑ろにしたために不満が高まっていたのです。

 直義は、上杉氏や桃井氏ら有力武将の支持を受けその勢いは兄尊氏と高師直の勢力を圧倒しました。宗良親王信濃入りで南朝に帰順していた中先代党の中では、どうも直義方の旗色が良さそうだと見て寝返る者が出始めました。その代表が諏訪直頼でした。直頼は、諏訪氏惣領頼重、時継父子が鎌倉で自刃し、家督を継いだ時継の子頼継が幼少だったため、諏訪氏の実権を握った叔父(頼重の弟?)だとされます。ただし異説が多くはっきりしません。

 諏訪直頼は早くも1349年には、直義派として北信濃で守護小笠原政長貞宗の子、1319年~1365年)と戦っています。勝ち馬に乗れとばかり宮方も直義派と共闘し、小笠原氏は一時窮地に立たされました。が、観応の掾乱は京都と鎌倉を中心に戦われ、信濃に本格介入する余裕はなかったため守護方が次第に盛り返します。

 観応の掾乱は、1352年足利直義が兄尊氏に鎌倉で毒殺された事で終わります。残党の蜂起はその後も続きますが大勢は主将直義の死を持って決したと言えるでしょう。宗良親王は、じり貧を避けるために守護方との一大決戦を覚悟しました。

 1355年親王の呼び掛けで信濃周辺諸国の宮方が結集します。直義派残党もこれに加わりました。宮方の主力は諏訪氏、仁科氏です。信濃騒乱の元凶とも言うべき中先代北条時行は、1353年足利方に捕えられ鎌倉龍ノ口で処刑されていました。

 信濃守護小笠原長基(政長の子)は、村上、高梨、市河ら諸将を集め8月桔梗ヶ原(塩尻市)で宮方と激突します。宮方にとっては乾坤一擲、負けられない戦いでした。ところが劣勢は覆らず宮方は壊滅的打撃を受けます。これが信濃南朝最後の輝きでした。以後、信濃の宮方は急速に瓦解します。4年後の1359年将軍足利義詮が河内で南朝方に大攻勢をかけた時、幕府軍中にかつての宮方諏訪直頼、祢津行貞が加わっていた事でも分かります。信濃の国衆は上手く立ち回り、本領安堵を条件に次々と守護方に帰順していたのです。

 哀れなのは宗良親王でした。伊那郡の一地方勢力に落ちぶれながらも頑強に抵抗を続け1373年まで大河原を拠点に活動を続けます。その最期もはっきりしません。1374年関東管領上杉朝房の攻撃を受け信濃を退去、吉野に戻って亡くなったとも、再び遠江国井伊谷に戻って薨去したとも云われます。多くの宮方の武将が離反する中、最後まで井伊氏は南朝への忠誠を貫いたのでしょう。一方再び大河原に戻り、諏訪へ向かう峠道で討死したという説もあります。

 こうして信濃南北朝時代は終わりました。中央において南北朝合一がなされたのは1392年。幕府は三代将軍義満の時代でした。形の上で信濃統一を果たした守護小笠原氏ですが、中先代党、宮方は帰順したものの潜在的敵だったため心から心服せず支配が安定しませんでした。そして1400年大塔合戦の失敗で、小笠原氏の信濃一円支配が崩壊します。

 信濃国は、統一勢力を欠いたまま戦国時代に突入することとなりました。この国の地勢、南北朝の戦いが原因でしたが、北条時行信濃入りから始まる長い戦乱を考えると感慨深いものがあります。




                                (完)