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信濃の南北朝Ⅳ  宗良親王の信濃入り

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 信濃における南北朝の争いは、結局守護小笠原氏方と中先代党の争いに過ぎませんでした。中先代党の主要な勢力をあげると、その中心は諏訪上社の諏訪氏、諏訪下社の金刺氏です。佐久・小県郡の滋野氏族である海野、祢津、望月の各氏。伊那郡では北部に知久、藤沢ら諏訪一族、南部に香坂氏が居ました。北西部山岳地帯の安曇郡には仁科氏がおり、信濃から越後糸魚川に抜ける要路糸魚川道を押さえます。

 北朝方は、守護小笠原氏を中心に佐久郡に広がる小笠原一族である伴野、大井氏。外様では埴科郡の村上氏、高井郡北部を中心に水内(みのち)郡に及ぶ高梨氏、更級郡の市河氏らが有力勢力でした。

 1336年2月、十日市場の合戦で中先代党の勢力は潰えたかに見えました。ところが諏訪氏など古来からの伝統を誇る一族が多く一朝一夕で滅ぶような勢力ではない事は理解できると思います。一時的には本拠を追われても匿う一族は多かったし、何よりも信濃は山岳地帯で隠れる場所に事欠きませんでした。

 信濃における南北朝時代突入を語る前に、中先代の当主である北条時行の動向を語らねばなりますまい。1335年7月鎌倉を落とされ逃亡した時行は、関東や東海地方を転々として再起の機会をうかがっていたようです。諏訪頼重ら中先代党の主だった武将は鎌倉陥落時ことごとく自刃して果てます。その数四十余名だったと伝えられました。彼らの遺骸は全員顔の皮を剥ぎとってあり誰が誰か分からなかったそうです。そのため時行もこの時死んだと判断され追及されなかったのが幸いしました。

 とはいえ、すでに時代は足利尊氏武家方と後醍醐天皇の宮方の対立南北朝時代に移行しており北条時行の存在は過去の遺物になります。旧北条方の諸豪族も時行に同情はするものの挙兵に対しては同意しませんでした。勝ち目がほとんどないからです。絶望的な状況の時行に運命の女神がほほ笑んだのは奥州の北畠顕家が尊氏を追って上洛軍を率いて南下した事です。

 時行は旧怨を捨てて南朝に帰順、北畠軍に加わります。時行は上洛し後醍醐天皇に拝謁、父北条高時に対する朝敵恩赦の綸旨を受けました。後に時行の後裔を自称する横井小楠も「この上ない親孝行である」と評したそうです。ところが時行の運は長く続きませんでした。肝心の北畠顕家が1338年6月和泉国石津の戦いで討死してしまうのです。顕家の戦死で北畠軍は四散します。時行は再び行方を晦ましました。

 ただ時行健在の報は信濃にも伝えられ、逼塞していた中先代党を喜ばせます。足利尊氏持明院統光厳上皇を奉じ後醍醐天皇南朝に対し北朝方となりました。九州から大軍を持って上洛し、南朝勢力を大和国吉野に追います。南朝方有力武将は1336年7月兵庫湊川の合戦で楠木正成戦死、新田義貞も1338年8月越前藤島で討死しました。北畠顕家も石津で亡くなっていますから、南朝側は劣勢に立たされます。

 南朝方は全国的に追い詰められつつあり、それを打開するために各地に後醍醐天皇の皇子を派遣しました。有名なのは九州の征西将軍宮懐良親王ですが、宗良親王もその一人でした。最初宗良親王は義良親王(後の後村上天皇)と共に1338年北畠親房に雍されて陸奥国府(当時の南朝国府伊達郡霊山にあった)へ赴くべく伊勢大湊を出港します。

 ところが暴風雨に遭い、義良親王は伊勢に吹き戻され吉野に戻りました。宗良親王遠江国静岡県西部)に漂着し、地元の豪族井伊谷の豪族井伊道政のところに身を寄せます。井伊氏の力は弱く1340年足利方の高師泰仁木義長らの軍勢に攻められ井伊谷城は落城しました。宗良親王は、遠江を追われ越後寺泊や越中放生津(射水市)などを転々としたそうです。

 1344年信濃国伊那郡の豪族香坂高宗は宗良親王を招き大河原(長野県大鹿村)に置きました。大河原は赤石山脈の谷深いところにあり周囲を峻嶮な山々に囲まれた天然の要害です。以後宗良親王は、大河原を拠点とし1373年まで30年間活動します。そのため宗良親王信濃宮とも呼びました。

 中先代党は、続々と宗良親王に帰順します。要するに守護小笠原氏の敵であれば誰でも良かったのです。守護権力を抑え自分たち国人領主の勢力を拡大する事が第一目的で、主義主張は二の次でした。さらに状況を複雑にしたのは武家方で足利尊氏と弟直義の対立が深刻化したことでした。三つ巴の情勢の中で、中先代党は複雑な動きをします。諏訪直頼などは一早く直義に誼を通じました。

 信濃の戦運は動き始めます。宗良親王はどのような戦いをするのでしょうか?次回最終章、桔梗ヶ原の合戦と信濃南北朝の終焉を描きます。