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信濃の南北朝Ⅱ  中先代の乱

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 小笠原氏は加賀美遠光の次男長清が甲斐国巨摩郡小笠原村に拠ったことから小笠原を称したのが始まりだと言われます。ちなみに同じ遠光の子で長清の弟に当たる光行は陸奥南部氏の祖です。長清は承久の乱で功をあげ阿波守護となりますが、本拠信濃守護職は北条氏が独占しました。とはいうものの、信濃各地の荘園の地頭職を獲得し着実に勢力を扶植します。

 一方、古代からの宗教の聖地諏訪大社の大祝(おおはふり)から武士団化した諏訪氏は北条得宗家と結びつきます。諏訪氏得宗家の御内人(家臣)となり大きな力を得ました。鎌倉時代の両者の力関係は互角というより諏訪氏の方が優位を保っていたと思われます。御内人と言えば内管領長崎氏が有名ですが、諏訪氏もまた鎌倉の北条得宗家に近侍し他の御家人を圧倒しました。

 そんな力関係が逆転したのは、鎌倉幕府の滅亡です。後醍醐天皇の新政(建武の新政)が始まったものの、武士団の輿望は河内源氏嫡流足利尊氏に集まりました。小笠原宗長、貞宗父子は最初北条氏に従い笠置山攻めに従軍します。笠置山は落城し後醍醐天皇隠岐に流されますが、秘かに脱出し再び討幕の兵を挙げました。これに呼応した足利尊氏(当時は高氏)は、同じ源氏の有力者小笠原宗長にも協力を要請します。最初は迷った宗長ですが、尊氏の要請を容れ宮方に転じました。

 これが功を奏し、宗長の嫡男貞宗(1292年~1347年)は1335年建武政権から信濃守護職に任ぜられます。小笠原氏誕生以来の悲願です。貞宗は領地のある埴科郡船山に守護所を設け本格的な信濃支配に乗り出しました。北条氏所縁の諏訪氏らは、逆に立場が危うくなります。

 話は、1333年5月の北条氏滅亡時に遡ります。新田義貞に攻められ北条氏一族は鎌倉葛西ケ谷東勝寺で自刃しました。炎上する中、北条氏最後の当主高時は側近諏訪頼重に遺児亀寿丸を託します。敵の重包囲の中辛くも脱出した頼重は、亀寿丸を本拠諏訪に迎え匿いました。亀寿丸は頼重の下で元服北条時行(?~1353年)と名乗ります。諏訪氏を中心とする神党は、信濃守護小笠原氏から冷遇されました。その恨みもあって虎視眈々と挙兵の時を待ちます。

 最初は小さな事件から始まりました。奥信濃の常岩(ときいわ)牧で1335年3月反乱が起こります。首謀者は不明ですが常岩弥六宗家の系統だと言われます。守護方の市河助房は軍勢を出して鎮圧しました。小笠原氏は当時守護所を船山に設けていましたが、善光寺に近く国府のあった府中(松本市)と共に信濃の政治的中心地の一つでした。というのも善光寺には国衙領が多く在庁機構『後庁』があったからです。船山は善光寺から府中に向かう道筋であるとともに、上田平から碓氷峠上野国に至る街道の分岐点に当たる交通の要衝でした。

 同じころ、府中でも北条氏の残党が蜂起します。これも小笠原氏の軍勢に鎮圧されますが、信濃は次第に騒がしくなりました。当時の信濃は守護小笠原貞宗を中心に北信濃を村上信貞が信州惣大将として軍事面で押さえ、同じく北信濃の有力豪族高梨経頼がこれを補佐していました。

 1335年6月、北条氏に近かった公卿西園寺公宗(きんむね)を中心とする建武政権転覆計画が発覚します。公宗は北条高時の弟泰家を匿っていました。信濃の時行と呼応して挙兵する計画だったようです。西園寺公宗は捕えられ誅殺されます。泰家は脱出し各地で鎌倉幕府再興を唱え北条方残党の挙兵を促しました。

 建武政権転覆計画が失敗した事で、1335年7月北条時行は諏訪で挙兵します。といっても時行はどんなに年齢を考慮しても当時十代前半(下手したら十歳未満)だったはずで、時行を担いだ諏訪頼重らの挙兵というのが実情でした。時行が挙兵すると、保科氏ら北条家所縁の武士たちが次々と呼応します。保科氏らは神党の力を結集し守護方に挑みました。守護小笠原貞宗は、村上、市河氏らを率い北信濃で戦い小四宮河原、四宮河原、八幡河原と転戦し反乱軍を北方に追い落としました。22日村上河原で守護方が勝利し北信濃の反乱は一応鎮圧されます。

 ところが、この頃北条時行諏訪頼重らの本隊は諏訪を北上し府中に迫っていました。守護方は信濃各地で起こる反乱に対応するため府中を空にしていたため、府中は簡単に陥落します。守っていた国司博士左近少将入道(名前不明)は自害したそうです。

 これが中先代の乱です。中先代とは先代の北条氏と後代の足利氏の間という事で中先代と呼びました。守護方は北信濃の反乱で釘付けになっており中先代軍主力と戦うことはできませんでした。反乱軍は滋野一族を守護方の抑えで信濃に残し、主力を持って上州に討ち入ります。すると、建武政権に不満を抱いていた旧北条方が数多く参加したちまち数万の大軍に膨れ上がりました。

 当時鎌倉には尊氏の弟直義がいましたが、、武蔵における迎撃戦で大敗し7月25日ついに鎌倉は陥落します。北条時行は再び鎌倉の主人になったのです。ところが新政権側は足利尊氏を征東将軍として関東に派遣。直義軍と合流し巻き返しを図ります。勢いで鎌倉を落としたものの、その後のビジョンが全くなかった中先代軍は足利軍に敗北、わずか20数日で叩き出されました。

 時行は危機を脱しましたが、諏訪頼重、頼継父子ら反乱の首謀者たちは鎌倉大御堂で自害し、中先代の乱は終わります。足利尊氏は、関東に赴く時後醍醐天皇征夷大将軍職を望みました。ところが尊氏を警戒する天皇はこれを拒否、そのため尊氏は中先代を鎮圧しても帰還せず鎌倉で自立の構えを見せました。実質的にこれが南北朝時代の始まりです。

 宮方は尊氏追討軍を派遣しますが、逆に大敗し尊氏はこれを追って上洛しました。しかし陸奥鎮守府将軍北畠顕家が奥州勢を率いて京都に入ったため、敗れた尊氏は九州に逃れます。そして九州の地で力を蓄え再び大軍を率いて京都に帰還するのです。

 その頃信濃国の状況はどうだったでしょうか?実は信濃では中央の情勢とはまったく関係なく守護小笠原氏と中先代残党との戦いが続いていました。次回、中先代余波を記します。