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信濃の南北朝Ⅲ  中先代余波

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 時代は足利尊氏率いる武家方と後醍醐天皇率いる宮方の対立、所謂南北朝時代に突入していました。一方、信濃は相変わらず旧時代の遺物ともいうべき中先代北条時行の残党である中先代党と信濃守護小笠原氏との血みどろの戦いが続きます。

 信濃がなぜ時代のエアポケットのような状況に陥ったかですが、京都と鎌倉の間にある街道の関係ではなかったかと思います。南北朝の戦乱は主に東海道を巡って争われました。というのも東海道の途中にある三河国(現在の愛知県東部)は鎌倉時代を通じて足利氏が守護職を占め勢力を扶植していたからです。足利氏が上洛する時はまず三河で態勢を整えましたし、宮方も背後を足利勢に襲われるのを避けるため最初に三河を抑えたのです。

 北国街道を擁する北陸道東海道に次ぐ南北朝の主要な戦場ですが、これは足利氏に対抗しうる新田氏の本拠が上野国群馬県)にあり隣国越後(新潟県)は新田氏の守護領国だったからです。実際新田氏は、関東の戦闘で敗れると越後に逃げ込んで勢力を回復しました。新田一族も上野から越後にかけて広がっています。

 信濃中山道が通っていますが、武家方も宮方も東海道北陸道の戦闘で手一杯だったため信濃まで戦域を拡大する余裕が無かったというのが実情でした。これが中先代党の活動を容易にしました。信濃守護小笠原氏はそれほど強力な支配体制を布いておらず、武家方の支援もなく孤立無援だったために舐められていたのかもしれません。

 鎌倉を落とされた中先代党の残党は次々と信濃に逃げ込みます。反乱軍の主力の一角滋野一族も健在でした。1335年9月、薩摩刑部左衛門入道が埴科郡坂木北条で蜂起したのが戦争の勃発になります。鎮圧に向かったのは守護方の北信濃における軍事担当者信州惣大将村上信貞です。蜂起自体は大した規模ではなく簡単に鎮圧されました。

 信濃村上氏は清和源氏源頼信流で埴科郡を本拠とする国人領主です。ややこしいのは同じ信濃源満快流村上氏が居る事で、こちらは後に徳川家臣夏目氏になりました。余談を続けると頼信流村上氏の庶流が水軍で有名な伊予村上氏です。村上氏は鎌倉時代には一応御家人だったと思われますが、目立った存在ではありませんでした。ところが南北朝期に急速に勃興し戦国時代には本拠埴科郡はもとより更級郡、高井郡小県郡に勢力を伸ばし北信の雄として信濃守護小笠原氏に匹敵する大勢力になります。

 南北朝期に成長した豪族と言えば、陸奥伊達氏が代表格ですが信濃では村上氏がその筆頭でした。薩摩刑部左衛門入道の挙兵を皮切りに小県、佐久、安曇、筑摩、諏訪、伊那という北信の川中島四郡を除く信濃中南部のすべての郡で中先代党が蜂起しました。守護小笠原貞宗は、これらの反乱を鎮圧するため東奔西走します。一つ一つの反乱は小さくても、各地で同時多発テロ的に動かれては対処のしようもありません。貞宗は守護方の村上氏、市河氏らと力を合わせ苦労を重ねながらもほぼ鎮圧に成功というところまで来ました。

 ところが翌1336年2月、京で建武新政府転覆に失敗し逃亡していた北条泰家信濃に流れ着き府中(松本市)付近で挙兵したのです。これには府中の有力在庁官人深志介知光の協力があったと言われます。在庁官人とは国府の役人ですから、もしかしたらこの頃中先代党と宮方は通じていたのかもしれません。北条泰家は守護方に攻め込まれ逼塞していた中先代党を糾合し守護小笠原氏と決戦すべく北進します。

 急報を受けた小笠原貞宗率いる守護方は、筑摩郡麻績(おみ)御厨の十日市場で迎え撃ちました。十日市場の合戦は信濃の天王山とも言うべき戦いでした。守護方も中先代党も負ければ後が無いという厳しい現実がありました。そして数で勝る守護方が勝利します。敗北した中先代党は散り散りになって潰走しました。北条泰家はこの時戦死したとも、脱出には成功したものの後に野盗に殺されたとも言われます。

 こうして北条時行の諏訪挙兵から始まる中先代の乱は終焉を迎えました。以後信濃の中先代党は活動を止めますが決して滅亡したわけではありませんでした。それが分かるのは後醍醐天皇の皇子宗良親王信濃入りした時中先代党が宮方として再び登場するからです。

 次回は、大草の宮宗良親王信濃入りと南北朝の戦いを描きます。