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越中における佐々成政Ⅲ   魚津城の戦い

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 佐々成政(1536年~1588年)は織田信長の武将です。通称内蔵助。信長の馬廻から武功を重ね黒母衣衆に抜擢。長篠合戦では前田利家らとともに鉄砲隊を率いました。天正三年(1575年)信長が越前を平定すると、北陸方面軍司令官柴田勝家の与寄として前田利家・不破光治と共に府中三人衆として三万三千石を拝領。以後は北陸戦線を中心に転戦します。
 
 その成政が、上杉との最前線である越中を任されたのは信長が成政の武勇を買っていたということでしょう。旧守護代家でありながら越中を追放され奇跡の復活を遂げた神保長住も、織田家の背景がなければ自分の存在が吹き飛ぶので最初は越中国守に任じられた佐々成政に協力していたと思います。神保一族も成政に従い、神保氏張などは成政の重臣となり嫡子氏興が成政の婿となるほど関係を深めました。
 
 しかし、織田信長という人は役に立つ人間はとことん使いますが役立たずとなると躊躇なく切り捨てる冷徹さを持っていました。織田家越中支配にとって旧守護代家の神保氏は、越中を確保した後は有害無益な存在に過ぎなかったのです。天正十年(1582年)、長住は突如起こった上杉方の国人小島職鎮らの一揆勢に本拠富山城を急襲され城内に幽閉されてしまいます。一揆柴田勝家佐々成政の軍勢にまもなく鎮圧され長住も無事救出されますが、この事件の責任を取らされ長住は追放されるのです。ただ神保氏張らは佐々方に残ったので、長住だけが割りを食った形でした。
 
 どうもこれは織田方の陰謀の臭いがしてなりません。上杉方に残った新川郡東部以外の越中国を完全に平定していた状況で、富山城近辺で一揆が起こるのも不自然だし、その直後待ちかまえていたように織田軍が鎮圧できたのも不思議です。私は長住追放のための出来レースだったのではないかと疑っています。
 
 天正十年当時の越中を巡る情勢を眺めてみましょう。織田方は北陸方面軍司令官の柴田勝家が越前八郡を領し北の庄にいました。越前大野郡は三分の二を金森長近、三分の一を原政茂が領します。越前敦賀郡は武藤舜秀に与えられました。佐久間盛政は加賀半国を領し金沢に在城、前田利家は加賀の一部と能登一国を拝領。織田家の北陸方面の陣容は最前線の越中を除いても越前・加賀・能登三か国で約120万石、動員兵力は4万を数えます。
 
 それに対し上杉景勝は越後一国と上州沼田領、越中東部で最大限贔屓目に見て60万石。兵力にして2万。ただ織田方が上杉に対する以外はすべて味方で4万すべてを越中に投入できるのに対し、上杉方は上野に滝川一益信濃川中島四郡に森長可と織田方に囲まれており、この方面にも防衛軍を裂かなければならなかったため、越中方面にはせいぜい5千くらいしか出せなかったのです。
 
 このままでは上杉景勝の滅亡は時間の問題でした。織田信長は、柴田勝家らに越中に残る上杉方の拠点松倉城、魚津城を攻略しそのまま越後に攻め入って上杉景勝を滅ぼすよう命じました。同時に信濃森長可、上野の滝川一益にも越後侵攻を命じます。
 
 柴田勝家を総大将とする織田勢は実に4万8千を数えたといいます。対する上杉方は3千。まともに戦ってはとても勝ち目がないので籠城策を取りました。といっても松倉城は山城で越後からの援軍が届きにくい事もあって上杉方は海沿いの魚津城に籠ります。織田方は魚津城を十重二十重に囲んだのみならず佐久間隊、前田隊は松倉城からの援軍を遮断すべく両城の中間に布陣。万全の包囲体制でした。
 
 魚津城危機の報告を受けた上杉景勝は5千の兵を率い春日山城を出立、越中に入るも織田軍とまともに戦っては敗北が決まりきっているので遠巻きに眺めるのみでした。それでも魚津城は頑強に抵抗します。しかし抵抗むなしく激闘80日、天正十年六月三日、ついに魚津城落城。中条景泰以下上杉家諸将は全員討死しました。
 
 さらに信濃から森長可勢が上杉家本拠春日山城に迫っているとの急報を受けた上杉景勝は無念の撤退をせざるを得ませんでした。絶望的な状況に上杉景勝はこの時死を覚悟したと思います。が、運命は急展開を迎えようとしていました。
 
 
 次回、本能寺の変で激変した越中戦線と佐々成政越中統一を描きます。