鳳山雑記帳はてなブログ

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薩摩藩と琉球の石高

 たまたま気になって調べたんですが、西国の雄で維新の原動力ともなった薩摩藩関ヶ原の敗戦後外交の限りを尽くして幕府に本領安堵されますが、その時の石高は61万石だったと言われます。その後江戸幕府の許可を得て琉球に侵攻、琉球の石高11万石を合わせて72万石になりました。俗にいう薩摩77万石は、享保内検の石高86万7千石から琉球分の9万4千石余を引いた数値だそうです。

 イメージ的に桜島霧島山系の噴火でシラス台地が広がる薩摩や大隅の地がそんなに豊かなはずないと思っていたんですが、鹿児島県のホームページを見ると薩摩77万石というのは俗にいう籾高で他藩並みの米高に換算すると37万石程度に過ぎないと知り衝撃を受けました。

 こうなると江戸幕府が設定した72万石というのは軍役や各種普請を薩摩藩島津家に課す家格ですから相当苦しかっただろうと思います。南部藩のように宿敵津軽藩に対抗し自ら家格を釣り上げた(10万石から20万石に)のでなければ、江戸幕府の嫌がらせという側面もあったのかもしれません。だから薩摩藩は米以外の収入を得るべく殖産興業に勤め琉球を通じた密貿易で実力を蓄えたのでしょう。

 琉球の石高ですが、最初薩摩藩が侵攻した時は11万石で享保年間には9万4千石に減っています。これはあくまで私見ですが、薩摩藩は少しでも外貨を稼ぐために琉球の領民に米作りではなく砂糖黍栽培を強制したのではないかと思うんですよ。米よりも砂糖黍のほうが高く売れますからね。

 薩摩藩の内部でも武士の数が他藩より圧倒的に多かったため財政的には非常に苦しかっただろうと想像します。他藩が薩摩藩に悪口を言うとき芋侍と揶揄したそうですが、実際下級武士の郷士たちは米ではなくさつま芋を主食にしていたそうですから哀れです。しかしそれがハングリー精神をはぐくみ質実剛健な薩摩武士を形成したとすれば良い面もあったのかもしれません。

 搾取される一方の琉球の住民にとっては悪夢だったでしょうが。幕末期、薩摩藩は内高(実際の収入)が90万石以上になっていたそうですが、これは殖産興業と密貿易の成果だったのでしょうね。米だけに頼る経済では蓄財はできなかったそうです。長州藩も似たような経済政策で莫大な資金をため込んでいたと言われますし、仙台藩が内高200万石と言われていても幕末期振るわなかったのは米中心の経済という側面もあったのかもしれません。

 歴史を経済面からアプローチするのもなかなか面白いと個人的には思いました。