鳳山雑記帳はてなブログ

立花鳳山と申します。ヤフーブログが終了しましたので、こちらで開設しました。宜しくお願いします。

畠山重忠と惣検校職(そうけんぎょうしき)

 マニアックな話題で申し訳ございません。大河ドラマ鎌倉殿の13人で畠山重忠が代々武蔵国惣検校職を受け継いできたという話が出ました。今回は惣検校職とは何か?について考えていきたいと思います。

 その前に大前提として当時の地方行政の話をします。律令体制下では朝廷から各国に国司が派遣されていました。国府の長官である国守(くにのかみ)、次官の介、三等官の掾(じょう)、四等官の目(さかん)です。このうち国守、介くらいは朝廷から派遣されたものの、掾や目は地方の有力豪族が任命されたケースが多かったと思います。

 そのうち、国司に任命された貴族たちも現地に赴任することを嫌がりだし、代官を派遣するようになります。これを遙任(ようにん)と呼びます。平安時代末期になると有力貴族や有力武士に知行国といって特定の国の知行権を与えるようになってきました。荘園の成立で律令体制の崩壊が始まったのですが、この知行国制度はそれに完全に止めを刺したとも言えます。

 例えば平安末期、武蔵国知行国守は平家でした。有名どころだと平知盛。もちろん本人は現地に赴任しませんから代官を派遣しして支配しました。これを目代と呼びます。伊豆の目代山木兼隆源平合戦で良く知られていますね。

 ところで国司が赴任しないのだから国府の行政は滞りますよね。そこで目代のもとで留守所というものが設けられました。留守所は目代を中心に在庁官人で構成され、公文書をつかさどる公文所(くもんじょ)、警察をつかさどる検非違所(けびいしょ)、徴税をつかさどる税所(さいしょ)などが置かれました。それぞれの部署の責任者を検校職と呼びます。惣検校職とはこれらの部署を統括する役目でした。国務は在京の知行国守の命を受けた留守所の下文(くだしぶみ)で執行されました。

 では惣検校職が常設の役職だったかというと、そうでもなかったようです。資料で確認されているのは大隅国で1025年。武蔵国鎌倉時代に入った1226年です。ですから畠山重忠が惣検校職だったかは怪しいと思います。目代がいるのに惣検校職があっても無意味ですからね。

 伝承では武蔵国留守所惣検校職は秩父氏の惣領が代々受け継いできたと言われます。畠山重忠は当時の秩父氏の惣領。ですから惣検校職になっていたと説明されれば納得はできます。平安時代末期には行政権に加え現地の武士を指揮統制・動員する軍事権も持っていたと言われますから武蔵国の有力御家人畠山重忠が惣検校職なのは自然ではあります。

 しかし、大隅国は特殊事情があって(隼人など統治が難しい異民族がいた)惣検校職を設けたとすれば、武蔵国に似たような理由があったかは非常に疑問です。確認されている1226年に惣検校職だったのは河越重員(しげかず)。重員は畠山氏滅亡後秩父氏の惣領になっています。そして重員は北条得宗家の被官でした。当時、大隅国武蔵国も国守は北条氏です。泰時(あるいはその父義時)が被官の河越重員の箔をつけるために大隅国にあった惣検校職の役職(名誉職)を与えたと考えるのが一番自然な気はします。そして河越氏が代々惣検校職を受け継いだ時に、これはもともと秩父氏惣領が受け継いできた役職だったと称したのかもしれません。

 そもそも畠山重忠武蔵国留守所惣検校職だったとすると、比企氏全盛時代にもっと軋轢があったはずだと思うんですよ。皆さんは畠山重忠の惣検校職、どのように思われますか?