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源平合戦Ⅴ 富士川の戦い

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 頼朝一行は石橋山の敗戦後なぜ安房国に逃れたのでしょうか?安房国は房総半島の先端で敵が攻めてきても一方を守れば良いというのが理由の一つでしょう。それに安房には頼義以来の源氏の所領もありました。加えて相模国三浦半島一帯を支配する三浦氏は水軍を握っており、平家方は海路安房を攻められない事も大きかったと思います。逆に頼朝軍は三浦水軍を使っていつでも相模国を攻められます。

 いざとなったら安房に逃げるというのが頼朝陣営の作戦でした。惣領義明を失った三浦一族も、義明の息子義澄を中心に一家を上げて安房に至ります。安房に落ち付いた頼朝は関東各地の豪族に使者を送り味方に付くよう要請しました。これに真っ先に答えたのが下総の豪族千葉介常胤でした。千葉介氏は平忠常の流れをくむ下総の大豪族で、在庁官人として代々下総権介に任じられた事から千葉介を称します。常胤は頼朝の使者を迎えると、俄かに軍勢を発し下総の平家目代の館を急襲し滅ぼしました。

 ところが千葉介氏と同じ上総権介を世襲する同族で平忠常の子孫房総平氏の大物上総介広常は、最初色良い返事をしませんでした。というのは上総介氏は京都の平氏政権ともうまくやっておりこれと言って不満が無かったからです。広常は頼朝の将来性と平家の未来を天秤にかけていたのかもしれません。頼朝としてはぐずぐずしても始まりませんから、安房で軍勢を整え北上を開始しました。

 そこへ広常は二万騎と号する大軍で参陣します。上総国は戦国末期でも三十七万石。軍記物に書かれている二万騎というのは誇張にすぎないでしょう。実数は二千騎くらいだったと思います。これに従者が三名ずつ付いたとして総勢八千。これくらいが妥当でしょう。頼朝の軍勢はこの時二千にも満たないはずですから、実に総勢の八割以上を広常の軍勢が占めた事になります。こうなると態度がでかくなるのは自然でした。最初は広常の参陣を感謝した頼朝ですが、驕慢の振る舞いを繰り返す広常を憎み三年後些細な罪を着せ誅殺しました。

 上総介氏、千葉介氏という大豪族を味方に付けた頼朝の軍勢が武蔵国境に達すると、平家方の大庭景親に味方していた畠山重忠をはじめ河越氏、江戸氏ら有力豪族たちが次々と参陣します。瞬く間に大軍に膨れ上がった頼朝は、父祖以来の所縁のある要害の地相模国鎌倉を本拠地に定めました。石橋山の敗戦からここまでわずか40日。いかに頼朝が急速に勢力を拡大したかが分かります。

 頼朝は鎌倉に入ると次々と新政策を実行しました。平家方豪族の領地を没収、功績のあった武士たちに分け与えます。鎌倉を武士政権の基礎とすべく、公平な裁判を約束しました。これがのちの御成敗式目に繋がります。関東に武士たちは、平氏政権の不公平な扱いに不満を持っていましたから頼朝を支持しました。

 なぜ流人に過ぎない頼朝が、これほどの政権を立てられたのでしょうか?それは京都の下級貴族斎院次官中原親能らが従っていたからです。親能は京都時代から源氏と深い関係があり、頼朝挙兵で自分の身が危うくなり逃亡してそのまま頼朝に仕えたのでした。親能の弟で大江氏を継いだ広元、頼朝の乳母の子だった三善康信らも前後して頼朝に仕えます。彼ら有能な官僚団が加わっていたからこそ安定政権ができたのです。高位高官は占めても、実務を司る有能な官僚団を育成できなかった平氏政権よりある意味新興の鎌倉政権の方が有利だったかもしれません。

 鎌倉武士たちは教養がなく読み書きも満足にできない者が大半でしたから、政権中枢に入れるのは教養のある武士たちに限られます。石橋山合戦の際頼朝を助けた梶原景時もこの時重用された一人です。景時は大江広元らと普通に会話できたそうです。北条家でも長男宗時戦死後弟の小四郎義時が台頭します。義時は武勇はありませんが、読書好きで景時ほどではなくとも関東武士には珍しく読み書きができました。頼朝の正室政子の弟でもあった義時が、将来台頭する芽はたしかにあったのです。

 頼朝が挙兵し、全国の源氏所縁の者どもが騒ぎだしているという報告は平氏政権を驚愕させました。清盛は、頼朝の勢力が手に負えなくなる前に叩こうと討伐軍を送ります。総大将は亡き長男重盛の嫡男惟盛。このような重要な戦に、戦場経験の無い22歳の若者を総大将に起用したのは理解に苦しみます。本来であれば平氏で一番有能な清盛四男知盛を総大将にすべきでした。平家は最初から間違っていたのです。

 平氏の鎌倉討伐軍は号して十万。ただし寄せ集めでいやいや集められた者が大半で士気は低かったと思います。頼朝に呼応し甲斐源氏武田信義安田義定らが挙兵、平氏の軍が着く前に駿河国府を襲撃、目代を討ち取っていました。平家軍は無能な総大将惟盛を頂いて、兵糧集めも上手くいかずボロボロの状態で富士川に達します。一方、頼朝も平家との決戦に備え総兵力をこぞって駿河に入りました。この時の頼朝軍の兵力は不明ですが、すくなくとも数万はいたはずです。

 平家は大軍だけに、兵糧の不足で内部崩壊寸前でした。1180年10月20日運命の日の夜が明けようとしていました。甲斐源氏の一党は頼朝の本軍到着前に功績を上げようと未明に軍を発し朝駆けのため秘かに富士川を渡河します。ところが眠っていた水鳥たちがこれに驚きいっせいに飛び立ちました。無数の水鳥の羽音はあたかも大軍が攻めよせたかのようでした。

 少なくとも平家軍の雑兵たちはそう感じます。もともと戦意が低い者たちですから、驚愕し我先に逃げ出します。恐怖は恐怖を呼び平家軍は一戦も交えずに潰走。総大将は味方の惨状をただ茫然と眺める事しかできませんでした。結局一戦も交えず頼朝は勝利します。惟盛が京都に逃げ帰った時、供はわずか十騎ほどだったと伝えられます。

 こうして頼朝の鎌倉政権の地位は不動となります。しかし頼朝はすぐには上洛しませんでした。頼朝の賢いところは、まず地盤を固め機会を待って京都に打って出ようと考えた事です。駿河からの帰途、頼朝は生き別れとなっていた異母弟義経と再会します。義経は、僧として入れられていた鞍馬寺を脱出し奥州藤原氏に匿われていました。その他、別の異母弟範頼も加わります。頼朝は、関東における有力な平家方、同じ源氏の常陸佐竹秀義を討ちます。

 1183年、信濃国木曽谷に挙兵し信濃から越後方面に進出しつつあった木曽義仲の勢力が上野国に伸びてきたため、頼朝はこれを放置できず自ら出陣し上野に入ります。両者にらみ合いが続きますが、平家という共通の敵のために和睦が成立、義仲の嫡男清水冠者義高を頼朝の長女大姫の婿に迎える事になり両者兵を引きました。義高の婿入りは実質的には人質でした。頼朝と義仲の力関係の差がこのような結果になったのです。

 義高と大姫は二人とも幼かったためままごとのような夫婦でしたが、後に頼朝と義仲が険悪化し、結果義仲が攻め滅ぼされると人質だった義高も殺されます。そういった大人の汚い事情など分からない大姫は、生涯父頼朝を恨んだそうです。




 着々と関東を中心に勢力を伸ばす頼朝の鎌倉政権。一方、木曽義仲は頼朝との和睦で北陸に進出するしかなくなります。次回、義仲の挙兵と彼の戦いを見て行きましょう。