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源平合戦Ⅶ 倶梨伽羅峠の戦い

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 越後城氏は桓武平氏の一族です。清盛などの伊勢平氏とは別流で平貞盛の弟繁盛から始まります。繁盛は常陸平氏の祖で城氏は大掾氏とも近い一族でした。繁盛の嫡男惟茂の子繁成が秋田城介(出羽国司の軍事面での次官)だったことから城氏を称します。子孫は越後を中心に勢力を伸ばし中央でも検非違使を務めるなど平氏政権とも深い関係を持っていました。

 城助職が義仲追討の命を受けた時、おそらく朝廷の命で賊徒を討つという認識だったのでしょう。助職に従う武士たちも同じ考えだったはずで、だからこそ一万近い大軍になったのです。一方、義仲は中核である木曽中原一族、諏訪氏信濃源氏の佐久党、甲斐源氏の一族であわせて三千余り。1181年6月両軍は信濃国善光寺平の横田河原(長野市)で激突します。

 負けたら後の無い義仲勢と朝廷の命で仕方なく出兵した城勢。必死になって戦った義仲勢は、寄せ集めの城勢を圧倒、義仲の適切な指揮もあり奇襲を受けて助職の本陣が崩れます。つられて城勢は全軍崩壊、この一戦の勝利で木曽義仲は北陸の武士たちに源氏の棟梁と認めさせることに成功、信濃、上野はもとより越後、越中、加賀、越前と北陸道沿いに上洛する道が開けました。

 義仲の急成長は、関東に着々と地盤を築く頼朝にとって苦々しい存在となります。さらに頼朝に逆らった叔父新宮十郎行家志田義広が義仲のもとに逃げ込んだ事から両者の対立は決定的になりました。1183年3月、義仲と頼朝は互いに軍勢を率いて上野国で対峙。強大な頼朝の勢力と争うのは得策でないと義仲側が折れ、長男義高を頼朝の長女大姫の婿とする事で和睦が成立します。義高は鎌倉に送られ人質となりました。

 後顧の憂いを断った義仲は、軍勢を率いて上洛の途につきます。その大義名分は以仁王の遺児北陸宮を奉じる事でした。平氏政権は、富士川の敗軍の将惟盛をまたしても総大将に据え追討軍を派遣します。これを見ても平氏にやる気の無い事が分かります。滅ぶべくして滅んだのです。おそらく都での栄耀栄華に慣れ、戦争のような汚れ仕事は惟盛のような若造に任せておけばよいという奢りでした。軍勢だけは力を入れ十万。そして無能な惟盛はまたしても兵糧の調達に手間取り軍中に大きな不満を残したまま進軍しました。

 1183年5月9日、越中国に入った平家軍先遣隊は般若野(富山県砺波市)で、義仲の武将今井兼平の軍勢の奇襲を受け敗退します。これで慎重になった平家軍は越中加賀国境沿いに陣を布き義仲軍を迎え撃つ作戦に切り替えました。惟盛の本隊七万が砺波山に、別働隊三万を志雄山に配置。義仲軍はこの時五万に膨れ上がっていましたが、それでも平家軍の半分に過ぎませんでした。

 平家軍も寄せ集めですが、義仲軍も勢いにつられて参加してきた武士ばかりで兵の質という意味では同様です。両軍の兵の質が同等という事は、平野での決戦は数が物を言うので不利だと義仲は考えました。そこで平家軍が陣を布く山中から通じる山道をすべて封鎖、麓に降りられないようにします。そのうえで、樋口兼光に三千騎を与え北から大きく迂回させ、背後の倶梨伽羅峠に向かわせました。

 1183年5月11日、運命の合戦が始まります。昼間の内は小競り合いに終始しますが、義仲はその夜手勢を率い山中に入り、平家軍の陣の上から奇襲攻撃を掛けました。この時牛の角に松明をくくりつけ暴走させるという、所謂火牛の計が行われたと軍記物には記されますが、史実かどうかは分かりません。ただ奇襲攻撃は、もともと士気の低かった平家軍を驚愕させます。真夜中ですから方向を見失い、倶梨伽羅峠の断崖に落ち絶命する者が後を絶たなかったそうです。

 潰走する平家軍を、背後に回っていた樋口勢を中心に散々追い立て十万の大軍はその半分を失い総大将惟盛はほうほうの体で都に逃げ帰りました。倶梨伽羅峠の完勝で義仲軍の京都への道は開けます。ただ、途中加賀国で義仲軍に立ちふさがる軍勢がありました。潰走する味方を纏め加賀国篠原(加賀市)で一矢報いようというのです。

 勢いに勝る義仲軍はこれを鎧袖一触、義仲は送られてきた敵将の首実験をします。なんとその人物は、かつて自分の命を救った斎藤別当実盛その人でした。すっかり白髪になっていたものの、命の恩人の変わり果てた姿を見て義仲は涙します。実盛は平家への恩忘れ難く殿軍となって自らを犠牲にしたのでした。義仲は実盛の遺骸を丁重に葬らせます。

 義仲軍は、6月10日越前、6月13日には近江に達しました。京都へは指呼の間です。入京に先立ち、義仲は比叡山に使者を送り「味方に付くのか、敵に回るのか?もし敵対するなら軍勢を派遣する」と恫喝しました。比叡山は義仲に反感を抱きますが、強大な軍勢に膨れ上がった義仲軍に抵抗するのを断念、義仲入京を黙認する態度をとります。


 次回、平家の都落ちと義仲入京を描きます。