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源平合戦Ⅵ 木曽冠者義仲

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 1180年(治承四年)という年は平氏にとって最悪の年でした。以仁王の乱に始まり、源頼朝の挙兵、木曽義仲の挙兵、富士川の大敗と平氏政権の衰退を窺わせるような出来事が次々と起こります。平氏の棟梁清盛は、反平氏勢力が蠢く京都を嫌い、自分たちの本拠摂津国福原に遷都を計画しました。

 1180年6月26日、以仁王の乱からわずか6日後安徳天皇高倉上皇後白河法皇に福原御幸を仰ぎ福原に行宮を設け強引に遷都を実行します。清盛としては、隣接する大輪田泊日宋貿易を行い福原を新都として繁栄させようという考えでしたが、福原(現神戸市)は土地が狭く、都にふさわしい陣容を築くことはできませんでした。土地が足りないため、福原に屋敷を与えられたのは親平氏派の貴族のみ。巷には怨嗟の声があふれ、かえって平氏一門に対する庶民の反感は増大します。

 結局福原遷都は大失敗し同年11月23日京都遷幸となりました。平氏政権が後の鎌倉幕府と違い安定政権を築く事ができなかったのは、朝廷と一体化し高位高官に昇ることで安心し独自の官僚機構、軍事機構を構築できなかったからだと思います。清盛は平氏の中ではもっとも政治力のある人物でしたが、彼でさえこの程度なのですから、もし重盛が長生きしていたとしても同じだったと思います。ましてや重盛亡き後後継者と目された三男宗盛では尚更無理でした。

 宗盛は、清盛の正室(後妻)平時子の長男です。血統的には申し分ないのですが、取り得はそれだけ。温厚ではあっても優柔不断でとても厳しい乱世を渡れるような人物ではなかったような気がします。本来なら四男知盛が継ぐのが平氏にとっては一番良かったのでしょうが、そうならなかったことが平氏の滅亡を暗示していました。知盛は時子の次男なので後継者となっても違和感はなかったはずなのです。



 さて、話を木曽義仲に戻しましょう。大蔵合戦で父東宮帯刀先生義賢を殺され自身も処刑される寸前、斎藤別当実盛に救われ旧知の仲だった信濃国木曽谷の豪族中原兼遠に預けられた駒王丸。兼遠は駒王丸を匿い大切に育てます。信濃中原氏は、頼朝の時に出てきた中原親能とは同族です。ただし早くに分かれ武士化し信濃権守を務めるほどの豪族でした。

 駒王丸は、兼遠の子樋口兼光今井兼平巴御前らと兄弟同然に育てられます。この三人が後の義仲軍の中核となりました。源平盛衰記では巴御前を義仲の側室としていますが、中原氏は武家の中では名門で簡単に側室にできるような家柄ではなく、最初は正室ではなかったかとも言われています。義仲が後に京都を制し征夷大将軍になって関白松殿基房の娘伊子を娶った時に、やむなく側室に格下げになったのではないかという説です。この説は合理性があり私も採用します。

 兼遠の妻が駒王丸の乳母となりましたから、兼光、兼平、巴とは言わば乳兄弟でした。駒王丸はこの地で元服し義仲と名乗ります。義仲27歳の時、1180年叔父新宮十郎行家以仁王の令旨を携え木曽へやってきました。正直言うと義仲の仇は平氏ではなく自分の父を殺した悪源太義平であり、頼朝は義平の異母弟なので心中複雑だったと思います。が、源氏としては敗死した以仁王や源三位頼政に代わって平氏を討てば、嫡流となり得るわけで義仲はそこへ価値を見出したのかもしれません。どの道木曽の片田舎で一生を終える気の無かった義仲としては、乾坤一擲賭けてみる事にします。

 源氏の嫡流頼朝が平氏から謀反の嫌疑を受け挙兵に追い込まれたのに比べると、義仲は積極的に動きました。木曽谷は南西に向かうと美濃国、北東に向かうと松本平に至ります。松本平からは北に越後、東は上野、南の伊那盆地を通って遠江三河に通じていました。伊那盆地にはすでに頼朝方の甲斐源氏の勢力が伸びていましたから、義仲が伸びるとしたら北です。中原一族や近隣の諸豪族を糾合した義仲は、1180年9月7日信濃の源氏方を救援するため善光寺平に進出、市原合戦を起こします。

 その後、父義賢の旧領のある上野国多胡郡に向かい、再び信濃に戻って勢力の基盤作りに邁進しました。この頃までには、諏訪大宮司家など信濃の有力豪族を味方に付け侮れぬ勢力に成長します。平氏政権としても放っておくことができず、越後平氏の有力者城助職に義仲討伐を命じました。助職は一万とも言われる大軍を動員し南下します。義仲の前に立ちふさがった初めての大敵です。義仲はこの危機をどのように乗り越えるのでしょうか?

 次回、横田河原合戦から倶梨伽羅峠へ義仲の戦いを見て行くこととしましょう。