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光る君へに出てくる北宋商人朱仁聡の考察

 例によってマニアックなネタなので歴史に興味ない方はスルーお願いします。

 私は細かいことが気になってしまう性格です。NHK大河ドラマ『光る君へ』に出てくる北宋の商人朱仁聡は北宋朝廷の命を受け日本と交易をするために来日したと描かれています。あるいは日本を侵略するためのスパイではないかという疑惑も出ていました。

 しかし私は当時の北宋を中心とする東アジア情勢を考えて果たして北宋朝廷が日本に侵略目的のちょっかいを出したり、わざわざ交易を求めるかと非常に疑問を感じました。というのも当時の北宋にそんな余裕はなかったと思うんです。

 藤原道長の治世は内覧に就任した995年から、嫡男頼通に摂政と藤原氏の氏の長者を譲り引退した1017年までです。平安時代最大の外患刀伊の入寇は1019年ですから道長が政界を表向き引退し院政(という表現も変ですが…)を行っていた時でした。道長はその後1028年まで生きますが晩年は持病の糖尿病を悪化させ合併症で亡くなっています。

 朱仁聡の生没年は不詳ですが、おそらく987年から1000年くらいにかけて何度か来日していたようです。その時期北宋はどのような時代か調べてみると、第3代真宗皇帝の治世(在位997年~1022年)でした。

 北宋を巡る国際情勢は、契丹族の建国した遼が最盛期にあたり聖宗皇帝(在位982年~1032年)が統治していました。1004年遼軍と北宋軍は激しくぶつかり黄河を挟んで戦線が膠着します。中原まで攻め込まれているのですから北宋が不利で澶淵の盟を結ばされます。これは遼を兄、宋を弟とし遼に毎年莫大な歳弊(貢物)を贈ると言う北宋にとって屈辱的な内容でした。

 しかも、北西部にはタングート族が勃興し後に西夏を建国する李元昊が1003年に生まれたばかりでした。タングート族はチベット系の遊牧民族で、唐末期藩鎮(その責任者が節度使)として甘粛地方からオルドス(黄河の几状湾曲部の内側)地方にかけて勢力を扶植していました。北宋が天下統一後もしばしば反乱を起こし最後に李元昊が北西部の領土を奪い取ったのです。李元昊は1038年西夏を建国します。

 遼も最盛期とはいえ陰りが見え、辺境の満洲では女真族が勃興しつつありました。完顔阿骨打(わんやんあぐだ)による金の建国は1115年です。遼はしばしば女真に討伐軍を送りますが、地の利に明るい女真軍のゲリラ戦術に悩まされ鎮圧できませんでした。契丹族の遼は完全な遊牧民族女真族は半農半牧の民族で普通なら遼軍の圧勝のはずですが、北宋からの莫大な歳弊で贅沢に慣れ堕落していた遼軍は弱体化していたと言われます。

 刀伊の入寇もそんな激動の東アジア情勢がもたらしたものでした。ですから北宋は海外に目を向ける余裕などなかったはずです。朱仁聡が北宋朝廷の命で来日したというのは考えにくいと思います。ここで思い出されるのが明末の王直や鄭芝龍(有名な鄭成功の父)です。彼らは交易商人を自称しましたが、実態は海賊でした。ですから朱仁聡も良く言えば冒険商人、実態は海賊に近い存在ではなかったかと考えるのです。もちろん宋朝廷の命というのも真っ赤な嘘。

 海賊と言っても倭寇と同様、相手が平和的な接触をしてきたときは交易をします。逆に相手が敵対姿勢を示したとき海賊行為を働くのです。藤原道長政権が穏便にお引き取り願おうとしても拒否したのは善良な商人でなかった証拠です。皆さんは朱仁聡の正体、どのように思われますか?