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隋唐帝国Ⅲ  宋の武帝と南朝の興亡

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 謝安が東晋朝廷を主導する前、桓温(312年~373年)という実力者がいました。桓温は大司馬・都督中外諸軍事という軍政と軍令を司る国軍の最高司令官に就任し東晋朝廷を支配します。その権力は絶大で皇帝を挿げ替えるほどでした。彼が擁立した簡文帝が臨終に際し、「皇太子(孝武帝)を補佐してほしい。諸葛武侯(諸葛亮)や王丞相(王導)のように」と遺言したにもかかわらず、幼帝を圧迫し禅譲させて国を奪う事を画策します。

 さすがにこれは東晋の貴族層の猛反発を受け、謝安らの引き延ばし政策で実現せぬまま死去しました。桓温の息子桓玄(369年~404年)は、庶子で末子でしたが父桓温から溺愛され我がままいっぱいに育ちます。桓温の事件があったにも関わらず桓氏が滅ぼされなかったのは、王氏、謝氏と並ぶ有力貴族だったからです。支那の大豪族、大貴族というのは広大な土地を所有し領民も多く、桓氏クラスになると数万の兵力を動員できるほどの実力を有していました。日本で言えば伊達氏や島津氏のような大大名をイメージしてもらえば良いかと思います。ですから滅ぼそうとしたら大乱となるのは必定で、滅ぼしたくとも滅ぼせなかったのです。

 それでも桓温に対する朝廷の反発から、息子桓玄の官職は低く抑えられました。これに反発した桓玄は30歳の時義興太守の職を捨て野に下ります。当時東晋は、首都建康(建業から改名。現在の南京)を守る北府軍と帝国の重要拠点荊州(現在の湖北・湖南省)を守る西府軍という常備軍を持っていました。貴族の連合政権で帝権の弱い東晋では、これら軍部の力が増大し朝廷は北府軍と西府軍を対立させ競わせることでバランスを保っている状態でした。北府軍も西府軍も軍閥化し中央政界に影響力を及ぼす存在となっていきます。

 当時北府軍の本拠地は首都建康の東50kmほどにある長江南岸の京口江蘇省鎮江市)にありました。北府軍の司令官は淝水の戦いでも活躍した劉牢之。その部下に叩き上げの軍人劉裕(363年~422年)という人物がいました。

 孝武帝は暗愚な人物でした。ある時酒に酔った彼は最も寵愛する張貴人に「お前ももう30歳か?そろそろ廃されるだろう」と戯れを言います。張貴人はじっとこらえていたそうですが、その夜孝武帝が急死します。証拠はありませんが孝武帝の発言に怒った張貴人が毒殺したと噂されました。孝武帝この時35歳。息子安帝15歳が即位しました。

 安帝もまた白痴だったと伝えられます。叔父の司馬道子が摂政となり朝廷を動かしました。司馬道子は寵臣王国宝らを可愛がり政治は乱脈を極めます。ある時摂政司馬道子は朝廷の癌になりつつあった軍閥、北府軍と西府軍の削減を打ち出します。当然軍閥側は猛反発しました。

 野に下っていた桓玄がこの機会を見逃すはずはありません。荊州刺史として荊州の軍政と財政を握っていた殷仲堪を抱き込み西府軍の実権を握ると、「奸臣王国宝を討つ」と称し挙兵します。西府軍は首都建康を落とし王国宝らを処刑しました。この時北府軍の劉牢之は桓玄に味方します。部下の劉裕は「桓玄の天下は長続きしない」と劉牢之を諌めたそうですが聞き入れられませんでした。

 首都建康を制圧し西府軍・北府軍を握った桓玄に怖いものはありません。強大な軍事力を背景に安帝を脅し403年強制的に禅譲させました。摂政司馬道子まで殺害した桓玄の恐怖政治に味方した事を後悔した劉牢之は劉裕に「江北に逃れて再起を図ろう」と誘いますが、劉牢之に愛想を尽かし見限っていた劉裕はこれを拒否します。劉牢之は孤立し自殺しました。

 劉牢之の死で北府軍は解体され、劉裕も桓玄に仕える事となります。桓玄は軍の実力者劉裕に気を使い厚遇しようとしますが、桓玄の妻は劉裕がいつまでも人の下に付く人物ではないと見抜き「危険だから今のうちに殺すように」と夫に訴えたそうです。

 即位した桓玄は国号を『楚』と定めます。ところがその三カ月後の404年2月、秘かに機会を待っていた劉裕広陵で桓玄打倒を唱え挙兵。挙兵当時わずか1700名だった劉裕軍ですが、桓玄から人心が離れていた事もあり首都建康に近づくにつれその軍勢は瞬く間に膨れ上がりました。大貴族のドラ息子に過ぎない桓玄が、叩き上げの軍人劉裕に敵うはずもありません。それを承知していたからこそ桓玄は劉裕を取り込もうとしたのですが結局無駄に終わります。

 桓玄はろくに戦いもせず首都建康を劉裕軍に明け渡し遠く蜀(四川省)に逃れようとしました。ところが益州の都護馮遷によって息子桓昇と共に捕えられ処刑されます。野望多き男の最期でした。わずか三カ月天下でしたので、楚は南朝には数えられません。

 劉裕は、廃位されていた安帝を連れ戻し復位させます。東晋再興の功臣として宰相となった劉裕は北伐でも功績を上げ相国(非常設の最高職。日本で言えば太政大臣)に任じられ宋王に封じられました。ここまで来ると東晋は国家として命運が尽き、人々は劉裕が次の天下を握るのだと思い始めました。

 418年劉裕は安帝を殺害、幼帝恭帝を擁立します。420年その恭帝から禅譲を受け自らの王朝宋を建国しました。劉裕は宋の高祖武帝(在位420年~422年)となります。即位と前後して、後顧の憂いを断つため劉裕東晋の皇帝一族を皆殺しにしました。後世、この血生臭さがあるので劉裕のイメージはあまり良くありませんが、軍略に優れた有能な皇帝であった事は間違いなく、劉裕の建てた宋は後の趙匡胤の宋と区別するために『劉宋』とも呼ばれます。422年宋の武帝劉裕死去、享年60歳。

 正式な南北朝時代の開始は華北鮮卑族北魏が平定した439年ですが、華南では事実上東晋の時代から始まったとも言えます。以後南朝は宋・斉・粱・陳と続きました。


 ちなみに、桃花源記で有名な陶淵明はこの劉裕に仕えます。また世説新語の選者劉義慶は劉裕の甥にあたりました。


 次回は北魏による華北統一を描きましょう。