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隋唐帝国Ⅷ  李淵挙兵

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 618年、煬帝が江都(楊州)で臣下に背かれ殺されて滅亡した隋。すでにその前から、各地に群雄が割拠し無政府状態に陥ります。その中の一人に李淵(556年~635年)という人物がいました。

 李淵の祖父李虎は、西魏・宇文泰が設けた八柱国の一人。使持節・太尉・柱国大将軍・大都督・尚書左僕射・隴右行台・少師・隴西郡開国公に任じられます。家格から言えば隋を建国した楊堅より上で、李氏は西魏北周、隋を通して建国の功臣として大切に扱われます。文帝楊堅正室独孤皇后は李淵の叔母にあたるほどの家柄で、李淵自身も煬帝高句麗遠征時には兵站を管轄しました。

 楊玄感の反乱が起こると、山西 河東慰撫大使に任命され山西省太原に駐屯します。反乱や北方の遊牧民族突厥に備えるため大軍を擁していました。彼のもとにも、帝国各地で反乱が勃発し群雄が割拠し皇帝は事態を収拾できず首都長安を捨て遠く江都に逃れたという報告が入ります。ただ李淵自身は軍事的にはそこそこでも、政治上は凡庸な人物でしたからどうして良いか分からず赴任地太原に籠ったままでした。

 あるとき李淵の次男李世民(598年~649年)が父の執務室に入ってきます。世民は凡庸な李淵の子供たちの中で唯一幼少時から利発で麒麟児として李淵も将来を期待していました。李世民は父に天下の情勢を説き挙兵を促します。すでに李世民は部下たちに根回しを済ませており、李淵も断ることはできませんでした。617年、李淵はついに挙兵します。

 実質的に軍を動かしたのは李世民でした。右領軍大都督・敦煌郡公として軍を率いた李世民は、まず長安を落とします。長安には煬帝の孫代王楊侑がいました。李淵はこれを擁立し傀儡とします。すなわち恭帝です。群雄の中で一歩先んじるには大義名分が必要で、李世民にはそれが分かっていたのです。

 618年5月、煬帝が殺されたという報告を受けると李淵は幼少の恭帝禅譲させ自ら帝位に就きます。国号は、唐国公であったことにちなみ『唐』。すなわち唐の高祖(在位618年~626年)です。同じ頃、隋の将軍出身だった王世充は洛陽で鄭を、群盗出身の竇建徳(とうけんとく)は河北で夏を建国しました。その他、李密は魏を建てます。

 唐を建国した唐の高祖李淵ですが、まだまだこの段階では数多くいる群雄の一人。天下を統一するには彼らと戦い勝ち抜かなければなりません。そしてそれを担当したのは、李淵の次男李世民でした。李世民は、建国の功績から尚書令・秦王に任じられ唐軍を率いて各地に遠征します。その間、李淵は皇帝として首都長安を守りました。

 李世民のもとには、房玄齢や杜如晦などその後の唐王朝を支える有能な人材が集まります。李世民は最初の攻撃目標を洛陽の王世充に定めました。620年軍を率い洛陽城を囲みます。しかし王世充は隋の将軍出身で有能だったため頑強に抵抗しました。その頃河北では夏王竇建徳が強大化し群雄の中で最大の勢力に成長していました。

 王世充は、竇建徳に援軍を要請する使者を送り唐軍を内と外から挟み撃ちにする計画を立てます。竇建徳は群盗の頭目出身で人心が良く分かっていました。戦いにおいても略奪を禁じ、民衆の虐殺をしなかった事からたちまちのうちに大勢力に成長し、10万の兵力を動かすまでになります。この時天下争覇レースの先頭を走っていた事は間違いなく、唐がその最大の障害になっていた事も承知していました。

 竇建徳は王世充の願いを聞き入れ自ら10万の兵を率いて救援に赴きます。李世民絶体絶命の危機です。夏軍に向かえば王世充に背後を衝かれ、洛陽の包囲を続けたら夏軍に包囲され殲滅されるのです。李世民は洛陽包囲に最低限の兵力を残し、自ら主力を率いて洛陽の東、洛陽盆地と中原を結ぶ要衝虎牢関に陣を布き夏軍を迎え撃つ事にしました。



 この戦いは華北における天王山でした。勝者が天下に覇を唱える事ができるのです。李世民に果たして勝算はあるのでしょうか?次回虎牢関の戦いと唐の天下統一を描きます。