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隋唐帝国Ⅱ  東晋の成立と淝水(ひすい)の戦い

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 晋の皇族の一人に司馬叡という人物がいました。三国志で有名な司馬懿から数えると4代目。司馬懿の4男瑯邪(ろうや)王司馬伷の孫です。司馬叡の家系は三国志の時代を象徴するような家系で、彼の祖母は諸葛誕(亮の従兄弟)の娘。母は魏の宿将夏侯淵の孫。彼自身も司馬一族として瑯邪王になりました。

 祖父司馬伷は司馬師司馬昭(炎の父)の異母弟です。同母兄の汝南王司馬亮は八王の乱のきっかけを作った人物ですが、司馬伷が早世したため瑯邪王家は直接乱に巻き込まれる事を免れました。ただ時の権力者成都王司馬頴からは警戒され監視されます。

 司馬叡は天性の勘があったのでしょう華北の重要都市鄴(ぎょう)で軟禁されていた彼は、秘かに鄴を脱出し封地瑯邪に逃げ帰りました。この判断が彼の運命を決定的に左右したと思います。もし鄴に残っていれば戦乱に巻き込まれ他の晋の皇族と共に匈奴劉淵に皆殺しになっていたでしょうから。

 瑯邪は山東半島南部、海に面した所にあり現在の青島の近くです。この地は戦乱の中心地中原(黄河中流域)からは離れており戦乱の影響がほとんど及んでいませんでした。漢代から豪族の大土地所有が進み、有名な瑯邪の王氏や謝氏など大貴族が強大な力を保ちます。彼ら貴族たちは、司馬叡を担ぎあげ自立する道を探り始めました。そんな中、司馬叡は時の権力者東海王司馬越から安東将軍・都督揚州諸軍事に任じられます。

 これを奇貨とした司馬叡は、本拠を北方の蛮族が暴れまわる中原から遠く離れた江南建業(現在の南京)に移しました。建業遷都を建策したのは瑯邪の王氏出身で当時司馬叡の側近王導だったと伝えられます。江南で勢力を拡大していた司馬叡の勢力を無視できなくなった晋朝政府は、丞相・大都督中外諸軍事(現在で言う所の総理大臣と国軍総司令官を兼務したようなもの)に任じました。といっても晋の中央政府自体が異民族の侵攻に苦しめられガタガタな状態でしたから、いざとなれば司馬叡の根拠地江南に脱出するための事前工作だったとも言えます。

 316年、晋朝最後の皇帝愍帝が匈奴の族長劉淵の興した漢(のちに前趙と改める)に首都洛陽を落とされ連行されます。晋の滅亡です。愍帝は翌317年漢の首都平陽(山西省)で殺されました。晋の皇族たちもこの時匈奴に虐殺され、司馬叡が唯一生き残ります。

 318年、司馬叡は山東や江南の貴族たちに推戴され即位しました。これが東晋元帝(在位318年~322年)です。即位の過程から帝権は弱く大貴族たちの連合政権というような形になりました。東晋建国前後して、中原や山東から大貴族たちが続々と江南に逃れます。そのため、江南の地は開発が進み後に「江浙熟すれば天下足る」と評されるほど発展しました。

 もともと長江流域は稲作発祥の地にも近く、開発すれば大人口を養えるところです。長江文明もこの地に興りました。ただ、何らかの天変地異(大洪水?)で人口が激減し荒蕪地が広がっていただけなのです。事実上南北朝という時代の幕開けでした。元帝司馬叡は即位してまもなく322年、48歳の若さで死去します。

 支那大陸南船北馬といって淮(わい)河を境にして交通手段の主流が分かれます。中原で猛威をふるった北方騎馬民族も無数の河川が縦横に交わり船でなくては移動困難な江南の地まで勢力を及ぼすことは不可能でした。東晋は、淮河以南を平定し安定した国家となっていきます。

 時代は383年、東晋では第9代孝武帝の時代まで進みます。貴族の連合政権として安定していた東晋と違い、北方ではめまぐるしい民族の興亡がありました。遊牧民族は、農耕民族に比べ絶対数が少ないため多くの異民族を糾合した連合政権にならざるを得ません。匈奴族の劉淵が建てた漢も羯族出身の石勒や漢族の王弥など異民族出身の将軍が数多くいました。

 漢は、劉淵の死後一族の劉曜に乗っ取られます。劉曜は国号を趙(前趙)と改めました。ところが将軍石勒はこれに不満を持ち河北で自立して大単于趙王と名乗ります。これが後趙です。両者は中原で10年に渡り抗争を繰り広げますが328年結局後趙が勝ち匈奴の劉氏一族は皆殺しにされます。

 一時後趙華北を平定しますが、中核民族の羯族の数があまりにも少なすぎ皇位継承の内紛の末漢族出身の将軍冉閔に349年滅ぼされました。冉閔は後顧の憂いを断つため羯族を皆殺しにしたそうです。冉閔は漢民族に異民族に対する復讐を訴えこの時数十万人の異民族が殺されたといいます。北方遊牧民も残虐なら、漢人も残虐、長い戦乱で人心が荒廃していたのでしょう。

 冉閔は魏を建国しますが、このような恐怖政治は長続きするはずもなく間もなく陝西地方に興った氐族の前秦が混乱を治め華北を統一しました。前秦の第3代皇帝苻堅(在位357年~385年)はなかなか有能な人物でした。漢人宰相王猛を登用し官僚機構、法制度を整え中央集権化を進めます。376年には華北統一に成功しました。このままいけば天下統一も時間の問題でした。

 天下統一の野望に燃える苻堅は百万とも号する大軍を動員し東晋を撃つべく南征の途に就きます。382年の事です。東晋も天下統一を諦めたわけではなく桓温の北伐など何度か中原遠征が試みられますが失敗していました。降って湧いたような国難東晋の朝廷は大混乱に陥ります。時の宰相(尚書僕射)は名族謝氏出身の謝安(320年~385年)。

 権臣桓温の簒奪を防ぐなど、こちらも有能な人物でした。謝安は来るべき北方勢力の南進に備え甥の謝玄を将軍に任命し北府軍という首都防衛の精強な部隊を創設します。その北府軍に出撃命令が下り謝玄は援軍を加え8万を動員しました。数の上ではとても勝負になりません。ただ、敵は大軍ゆえに補給に重大な弱点を抱えていました。

 幾度かの小競り合いの末、383年10月両軍は寿春(淮南市)に近い淝水を挟んで対峙します。戦いを前にして謝玄は苻堅に使者を送りました。
「我が東晋軍は寡勢。せっかく国運を賭けて出撃したのにこのままでは数に圧殺されてしまう。ここは渡河させてもらい陣を整え正々堂々戦おうではないか」

 苻堅は侮っていた東晋軍が意外と精強なのに驚き、敵に乗ったふりをし東晋軍が渡河している途中を叩こうとこの申し出を受け入れます。しかしこれは要らざる小細工でした。そのまま数で圧殺すれば良いだけ。策士策に溺れる危険性は大なのです。兵法では敵が渡河している途中を撃つのはセオリーです。これを『半渡を叩く』と呼びます。しかし謝玄は、このような事は百も承知でした。

 謝玄は、勇猛な劉牢之に先鋒を任せ「渡河したら陣を整えずそのまま突撃せよ」と命じます。東晋軍は淝水を続々と渡河し始めました。苻堅は東晋軍を受け入れるため陣を後方に下げ待ち構えます。そして東晋軍が川を挟んで南北に分断する瞬間を叩こうというのです。

 ところが前秦軍は大混乱に陥りました。異民族の寄せ集め部隊だった前秦軍は、部隊間の意思統一ができておらず苻堅の作戦を知らない者が多かったのです。一時的な後退を撤退と勘違いした前秦軍の後陣が勝手に戦線を離脱し始めます。苻堅は使者を送り必死に戻そうとしますが、大軍だけに連絡が遅れました。

 この混乱を東晋軍が見逃すはずはありません。国土防衛に燃える東晋軍は火の出るような猛烈な勢いで突撃します。一旦不利になると寄せ集めの軍隊では裏切りが続出しました。特に漢人部隊は嫌々従っていた事もあり我先に東晋軍に降伏します。

 前秦軍は崩壊し、苻堅自身も流れ矢で負傷しました。誇張かもしれませんが前秦軍の8割が死傷するほどの大敗北だったと伝えられます。命からがら長安に逃げ帰った苻堅ですが、敗戦の結果皇帝の威信は地に堕ち前秦はばらばらに分裂し385年7月部下に裏切られて殺されました。

 一方、勝利した東晋ですがこちらも北上する余力はなく華南で勢力を保持するのみでした。淝水の戦勝の報告を受けた時、謝安は自宅で客と碁を打っていたそうです。文書を受け取っても無反応の謝安を見て客は不審に思い尋ねます。
「いかがされましたか?」
これに対し謝安は「小僧たちが賊に勝ったようです」
と平然と答えました。しかし客の帰った後謝安は喜びのあまり小躍りして履物の歯をぶつけて折っても気付かなかったというエピソードがあります。

 この謝安の治世が東晋の黄金期でした。その後は衰退し北府軍の有力武将劉裕に乗っ取られることとなります。次回は、劉裕の建てた宋から始まる南朝の歴史を記しましょう。