北魏第6代孝文帝が洛陽に遷都する前、首都平城(山西省大同市)を北方の柔然など剽悍な遊牧民から守るため鎮と呼ばれる軍管区を設置しました。西から沃野鎮、懐朔鎮、武川鎮、撫冥鎮、柔玄鎮、懐荒鎮、禦夷鎮の七鎮です。鎮将には北魏の皇族や拓跋部の有力者が選ばれます。
国防上重要な位置を占め、七鎮の幹部たちは鮮卑族、漢族に関わりなく通婚を重ね軍閥化していきました。ところが首都が中原の洛陽に移されると、七鎮は辺境に追いやられます。モンゴル高原の脅威だった柔然が弱体した事もあり重要性が薄れたのです。北魏の皇族たちも辺境の七鎮への赴任を嫌がり北魏朝廷は七鎮を軽んじるようになりました。
中央政界でも、次第に漢化していく中軍人の地位が低下し官僚と逆転します。武力を持って華北を平定した北魏にとってこれは致命的でしたが、官僚組織の頂点にある貴族と軍人の対立は激化しついに羽林営(近衛軍にあたる)の軍人千人が暴動を起こし軍に冷酷な大臣の屋敷を焼き討ちしました。北魏政府は鎮圧できず首謀者八人を処刑したのみで残りは大赦してしまいます。これを羽林の変と呼びますが、中央政府の弱体化を見て523年沃野鎮の武将破六韓抜陵が鎮将を殺し反旗を翻しました。破六韓抜陵は武川、懐朔両鎮を攻め落とし他の鎮もこの反乱に加わります。六鎮の乱と呼ばれる事件でした。
反乱自体は530年将軍爾朱栄によって鎮圧されます。ところが、弱体化した王朝ではありがちですが反乱鎮圧の過程で強力な軍権を握った爾朱栄の専横が始まるのです。528年孝文帝の孫孝明帝が19歳の若さで亡くなると、その母霊太后胡氏は孝明帝の甥にあたる臨洮王の子元釗(げんしょう、幼主)を立て摂政を続けました。
これに不満を抱いた爾朱栄は、別に孝荘帝を立てて傀儡とします。そればかりか528年4月13日幼主や霊太后、朝廷の王公百官二千人を呼び出し一挙に殺しました。幼主や霊太后は黄河に沈められたそうです。首都洛陽は貴賎を問わず衝撃を受け逃げまどいます。孝荘帝が宮城に入り百官を召しても誰も謁見に出ませんでした。
北方遊牧民の蛮性を濃厚に残していた爾朱栄の軍は、洛陽で略奪暴行強姦殺人と乱暴狼藉の限りを尽くします。翌529年南朝粱の武帝の元に亡命していた北海王元顥(げんこう)が粱の後援を受け洛陽を一時奪回しますが、爾朱栄の軍に敗れ南に逃亡の途中農民に殺されました。
530年、孝荘帝は自分を軽んじる爾朱栄に怒り誅殺します。ところが爾朱栄の一族が反撃し孝荘帝は捕えられることとなりました。処刑の日皇帝は「願わくば二度と皇帝になりませんように」という言葉を残して殺されたそうです。爾朱栄一族の暴政を鎮めたのは爾朱栄の部下だった大丞相高歓でした。彼もまた懐朔鎮に属する軍人の出身です。この頃になると、北魏はすでに王朝としての統治能力を失い高歓の専横が始まります。高歓が爾朱栄一族を滅ぼしたのは国家のためではなく自分の権力奪取のためでした。
これまで登場した人物の内、破六韓抜陵が遊牧民である事は分かると思います。彼は匈奴族。爾朱栄は契胡族。高歓も漢族風の名前ですがおそらく鮮卑族でしょう。このように五胡十六国時代遊牧民族が互いに国を建て争っていたのが、北魏という大枠の中での争いに変わったに過ぎませんでした。数ある遊牧民族のうち何故鮮卑族が最大の勢力になったかですが、それは単純に人口が多かったからです。匈奴族にしても羯族にしても最盛期は過ぎ支那本土に至った時には少数民族になっていました。ところが鮮卑族はすでに三国時代にはモンゴル高原を統一するなど巨大な勢力になります。ですから鮮卑族が華北を統一するのは時間の問題でした。
高歓は北魏第7代宣武帝の甥孝武帝を擁立します。孝武帝は傀儡として何の力もなく高歓が専横する姿を見て絶望し534年長安の宇文泰のもとへ逃亡しました。宇文泰は鮮卑族出身で武川鎮軍閥の実力者。大都督・雍州刺史兼尚書令として長安一帯を支配していました。ただ傀儡であることには変わりがなく、まもなく534年12月宇文泰に毒酒で暗殺されます。孝武帝は北魏最後の皇帝となりました。
皇帝に逃げられた高歓はまた別の皇族を擁立しますが、宇文泰と対立が生じた事から荒廃した洛陽を捨て河北の鄴(ぎょう)に遷都します。これにより北魏は、宇文氏が擁立する西魏と高氏が擁立する東魏に分裂しました。そして西魏は宇文氏に乗っ取られ北周に、東魏は高氏に乗っ取られ北斉になります。