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隋唐帝国Ⅶ  隋の煬帝(ようだい)

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 通常、支那王朝では皇帝が崩御すると次の皇帝が前皇帝の生前の功績をふまえて諡号(しごう)を贈ります。文帝とか武帝、あるいは宣帝などという名前はすべてこの諡号です。一方、高祖とか高宗、太祖、太宗などというのは廟号といってその皇帝が皇統の中でどこに位置するかを示す名前でした。

 では煬帝(ようだい)というのは、どれに当たるでしょうか?煬の字は悪逆な王や皇帝を示す諡号で、通常は選ばれません。せいぜい霊帝とか幽王くらいでとどめます。いくら無能な皇帝や悪逆の王でも一応自分の先祖(父か祖父)か親戚になるため、そこまで酷い言葉は選びません。ところが王朝最後の王や皇帝は、追謚するのがその王朝を滅ぼした国であるため、自分たちを正当化するためにも前の王朝を悪しざまに印象付けわざと酷い諡にするのです。

 煬帝も次の唐王朝が名付けたためこのような酷い名前になりました。夏の桀王、商(殷)の紂王も同じです。桀王・紂王に関しては最近そこまで酷くはなかったのではないかと再評価の動きが古代史学会から出ていますが、煬帝に関してもその動きはあります。さすがに治世のすべてが悪政というはずはなく中には世の中の役に立った事もあったはずなのです。煬帝最大の功績は黄河と長江を結んだ大運河の建設が上げられます。これも唐代では、煬帝が江南の物産を首都長安に送りやすくするために建設した、いわば自分の贅沢のための運河だと悪しざまに罵られました。たとえ動機がそうだったとしても、華北と華南の物流を円滑化し経済活性化させたという功績は大きかったと私は思います。

 では煬帝の生涯はどうだったのでしょうか?煬帝(在位604年~618年)は隋王朝第2代皇帝です。父高祖文帝の不可解な死を受けて即位した彼は、自分のライバルであった実の兄廃太子楊勇を文帝の遺勅だと偽り処刑しました。兄弟の生母で文帝の正室独孤皇后は、楊雄が派手好きで贅沢だった事を嫌い、弟楊広(煬帝)が親孝行で謹厳実直だった事から溺愛します。ところがそれは単なる皇太子の座を奪うためのポーズで、実際は兄以上の贅沢をするようになります。すくなくとも楊雄は学問好きだった事もあり正直でしたが、煬帝にはこのような狡猾な一面がありました。

 父文帝は倹約家で新国家建設のために蓄財に励み国庫は満ちていましたが、皇太子時代からそれを知っていた煬帝は父の遺産を使って大宮殿や大運河の建設など国家的な事業を次々と開始します。とくに長江下流にある江都(楊州)には贅を極めた離宮を造りました。このために何百万という人民が動員され国内では怨嗟の声が広がります。

 煬帝は後世に名を残したいという野望がありました。父文帝時代から懸案だった高句麗問題を解決しようと612年113万とも号する大軍を動員し遠征を行います。高句麗ツングース系民族の建てた国で現在の朝鮮半島北部から満洲東部にかけてを支配していました。隋とは南朝突厥と結び対立します。

 隋軍は、遼東方面から陸軍、山東半島からは水軍が出撃し高句麗を攻撃しました。ところが大軍であったために補給に困り始め、陸軍が高句麗の奥深くに進撃するにつれ苦しみ出します。まともにぶつかっては勝てない高句麗軍は、直接戦わず焦土戦術で対抗しました。高句麗軍は少数の騎兵を使って隋軍の弱点である補給路を攻撃し、隋軍が向かってくれば風のように逃亡します。隋軍は困り果て、これ以上の進撃が不可能になり進退極まりました。

 「一時撤退し、態勢を立て直して再び遠征を」という将軍たちの声に強気の煬帝もついに折れます。しかし、隋軍の撤退を手ぐすね引いて待ち構えていた高句麗の将軍乙支文徳は、薩水(清川江)あたりで隋軍に追いつきました。すでに帰国で頭が一杯だった隋軍は、これを支える事ができず壊滅的打撃を受けて潰走します。完全に高句麗の作戦勝ちです。隋軍の戦死者は数十万を数えたそうです。ただ隋は超大国だったためにこの程度の損害は回復可能で、煬帝は小癪な高句麗を討伐するため翌613年にも遠征の準備を始めました。

 ところが、数々の土木工事の上に高句麗遠征で負担に耐えられなくなった隋の国民の怒りがついに爆発します。各地で反乱が勃発しついには河北で隋の将軍楊玄感までもが立ち上がりました。楊玄感の参謀李密は、洛陽攻撃を下策だとして反対しますが、楊はこれを聞き入れず洛陽に向かいます。楊軍の洛陽攻略は失敗し、楊玄感は関中方面に転進しようとしますが、追手に追いつかれ自害しました。

 隋の将軍楊玄感の反乱は衝撃を与えます。高句麗遠征の失敗で煬帝の権威は地に堕ち華北の各地で群雄が割拠、首都長安さえ危うくなりました。覚悟の無い煬帝は、問題解決の努力をせず首都長安を捨て離宮のあった江都に逃げだします。これを諌める臣下は皇帝の不興を買って殺されたため、煬帝の周囲にはイエスマンしか残らなくなりました。

 618年、あまりの酷さに将軍宇文化及・宇文智及兄弟や裴虔通は近衛兵を率いて煬帝に迫り、首都長安への帰還を要求します。ところが煬帝はこれを聞き入れなかったため怒った宇文化及らに殺されました。享年50歳。煬帝の死によって隋王朝は滅亡します。残ったのは隋末に興った群雄たち。この中で勝ちあがったものが次の王朝を開くこととなります。

 次回、李淵の挙兵を語りましょう。