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女真族が強いのか漢族が弱すぎるのか?

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 今、『遊牧民から見た世界史』(杉山正明著 日経ビジネス文庫)を読んでいるんですが、よく見てみたらすでに10年前くらいに読んだ本でした。最近ボケが進んでいるんでしょうね、同じ本を何度も買う事が頻繁にあります。本棚を整理してみると『失敗の本質』という本は三冊、『大内義隆人物叢書)』という本は二冊もありました。自分の記憶力のなさに死にたくなります。

 『遊牧民から見た世界史』も読んでいて、この表現以前にも見たことあると思って調べてみたら案の定でした(苦笑)。記憶力が良いのか悪いのか、本当に情けない。


 愚痴はこれくらいにして、世界史では時々あり得ないくらいの番狂わせがあります。これも同書に載っていたエピソードですが、時代は12世紀初頭の支那。当時は北宋が支配していました。宋王朝は当時世界最大の経済大国だと言われましたが、逆に軍事では全く振るわない国でした。150万もの常備軍を持ちながら、北は遊牧民族契丹(キタイ)族の建てた遼に圧迫され澶淵の盟という屈辱的和睦を結ばされます。

 遼が宋を攻めない代わりに毎年絹二十万匹、銀十万両を歳弊として贈るという事実上の属国に成り下がります。さらに黄河のオルドス地方に興ったチベット系党項(タングート)族の西夏にすらぼろ負けし、陝西地方に50万の守備軍を置いて西夏の侵略を防ぐという情けなさでした。西夏へも歳弊を贈っていたそうです。

 いくら世界最大の経済大国でも、150万の常備軍、そして遼と西夏に贈る莫大な歳弊は宋の国家財政に大きな負担となってきました。そんな中、満洲の地に女真族が台頭してきます。女真族ツングース系半農半牧の民族で後には満洲族と名乗り清を建国しました。この時女真族に出現した英雄が完顔阿骨打(かんわんあくだ)です。

 阿骨打は遼の支配を脱し独立、国号を金と定め遼に対し戦争を仕掛けます。皮肉なことに契丹族はモンゴル系の精強な騎馬民族でしたが宋からの歳弊で贅沢に慣れすっかり弱体化していました。この動きを見た宋は、屈辱的な状況を脱するのは今とばかり、女真族と結んで1120年契丹族の遼を南北から挟み撃ちします。

 ところが宋軍は、弱兵と化した遼軍にすら連戦連敗、結局女真族の金が遼軍を押しまくり滅ぼします。約束では宋側が金に莫大な謝礼を払うはずでした。金はその話し合いのためわずか17騎の使節団を宋に派遣します。

 が、宋としては蛮族の金に謝礼を払うのが惜しくなったのです。弱いくせに国際信義もへったくれもない宋には心底呆れ果てます。適当にごまかし金の使節団を帰らせると、その帰途2000名の歩兵で襲撃しました。現地指揮官の個人的判断だともされますが、私は中央の命令があったのだと疑っています。それくらい当時の宋の朝廷は腐っていました。水滸伝の話はある意味真実なのです。

 番狂わせがあったのはまさにこの場面です。使節団ですから全員が精強な兵士ではなかったでしょう。ところが女真族は中央に7騎、左右に5騎ずつ別れ得意の騎射で馬を駆け巡らせ宋軍を大混乱に陥らせます。信じられないのは、宋側に歩兵が騎兵に対するときは弩などの投射兵器を大量に準備するという常識すらなかった形跡があるのです。いかに宋軍の指揮官が無能か分かりますが、結局わずか17騎の女真族に追いまくられ2000の宋軍が潰走してしまいました。

 この時、金の皇帝は二代太宗呉乞買(うきまい)でした。太宗は帰還した使節団から報告を受け激怒、すぐさま軍を発し宋を討ちます。結局、宋はくだらない裏切りのために首都開封を落とされ徽宗上皇、欽宗皇帝はじめ皇帝一族、文武百官すべてが満洲へ連行されました。1126年北宋は滅亡し、難を逃れた欽宗の弟趙構(高宗)が長江以南に南宋を建国するのです。

 私は、宋が裏切らなければ金は支那本土まで進攻する気はなかったと思います。遼の旧領燕雲十六州までは取られるでしょうが、宋の領土は保全されたはず。ところが変なプライドと異民族蔑視、謝礼が惜しくなったなどというくだらない理由でついには国を滅ぼしてしまいました。宋を建国した趙匡胤は史上でも名高い名君で信義に厚い性格だったそうですが、国が豊かになると人間はここまで腐敗堕落するんでしょうね。

 我々もこれを反面教師にしなければならないと強く感じました。