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モンゴル台頭前の東アジアⅣ  西遼(カラ・キタイ)   後編

 大石はモンゴル高原の北部にある可敦城に逃亡します。唐代には北庭都護府が置かれ遊牧ウイグル帝国時代も有力な拠点の一つでした。遼のモンゴル高原支配は緩やかなものでしたがおそらく遼も可敦城を拠点にしていたのでしょう。
 
 
 大石の率いる契丹族鮮卑から分かれた部族で、モンゴル高原にいた遊牧部族とは同系統の言葉を話していたと考えられます。一方、金を建国した女真族ツングース系で遊牧民族とは言いながら狩猟や一部農耕もする毛色の違った民族でした。半農半牧ということからトルコ族に近かったかもしれません。
 
 
 純粋な遊牧民族からはこのような民族は蔑みの対象になりますが、一方農耕民族支配には都合が良く順応もしやすいのです。半農半牧の民族は遊牧民と農耕民の長所を取り上げる合理性がありしばしば純粋な遊牧国家を破りました。そしていったん農耕民族社会を征服すれば長期間政権を維持する事が出来ます。オスマントルコなどはその典型ですね。
 
 
 モンゴル高原にいた遊牧民たちは、自分達に近い大石の不運に同情します。無意識な女真族に対する敵愾心もあったのでしょう。大石のもとへ18部とも云われるモンゴル高原遊牧民たちが集まりました。
 
 
 金に征服された契丹族の対応は二つに分かれます。征服者金朝に降伏してそのまま仕えた者。この中からのちにモンゴル帝国の宰相になる耶律楚材が出現します。一方、敵である金に服属するのを良しとしない勢力は、可敦城に大石ありと伝え聞いて続々とモンゴル高原に移動しました。
 
 
 大石は、集まった諸部族に推戴され汗(ハーン)を名乗り自立します。1130年、大石の勢力を無視できなくなった金は、降将耶律余賭を大将とする討伐軍を派遣しました。おそらく軍の主力は契丹人で、同族同士殺し合いをさせようとする狡猾な意図でした。
 
 両軍は交戦します。しかし大石は突然軍を引きました。自軍を纏めさらに西に向かいます。もしかしたら耶律余賭と暗黙の了解ができていたのかもしれません。余賭には討伐の成功を報告させる事が出来るし、大石は自軍を温存できるからです。想像ですが、余賭軍が金に報告した戦死者のうち大石軍に参加した者がかなりいたと思われます。
 
 
 大石は途中トルコ系諸族を糾合しつつアルタイ山脈を越え天山ウイグル領をかすめながら西へ進みました。目指したのは中央アジア。ここには往時の大帝国の影もないカラハン朝がありました。大石の軍はほとんど抵抗も受けず1132年カラハン朝を滅ぼしベラザグン(キルギス共和国首都ビシュケクイシク湖の間を流れるチュー川流域)に都を定めました。ベラザグンはフスオルダと改名されます。
 
 と言っても遊牧民の都ですから、建物があったかどうかは分かりません。遊牧国家(支那史書では行国と言う)の首都は王庭と呼び自然の要害に囲まれた場所に設けられた大規模なテント群でした。
 
 大石は即位して天祐皇帝と名乗り支那風に元号を天慶と定めました。遊牧民の間からはグル・ハーンと呼ばれたそうです。これが西遼(カラ・キタイ)の始まりです。西遼のユニークなところは、この地でも北面官南面官の制度を維持した事です。ただ遠方の異民族に対しては徴税官を派遣するだけの緩やかな支配に留まりました。
 
 
 大石は、ベラザグンを拠点に四方に遠征軍を送ります。東は天山ウイグルから西はのちに大帝国を築くホラズムシャー朝を服属させ中央アジアに大帝国が出現しました。
 
 西カラハン朝を支援していたセルジューク朝スルタン、サンジャルは突如出現した異民族を警戒します。1141年サンジャルは西遼を攻撃するため大軍を派遣しました。大石はこれをサマルカンド近郊のカトワン平原で迎え撃ち散々に破りました。この一戦で西遼の中央アジアにおける覇権が確立したと考えます。
 
 
 1143年、大石は金への復讐を誓い祖国奪回を目指して7万の兵力を率いて出陣します。しかしその行軍中俄かに病を発して崩御しました。享年58歳。遠征軍は引き返します。
 
 
 
 
以後西遼は80年に渡って中央アジアに君臨しました。しかし英雄耶律大石に匹敵する君主は出現せず、次第に衰退していきます。最後は耶律直魯古がチンギス汗に追われたナイマン部のクチュルクを保護し娘婿にしたのが災いし、クチュルクに国を乗っ取られてしまいました。1211年の事だと言われています。1213年耶律直魯古は没し西遼の王統は絶えました。
 
 簒奪者クチュルクの運命もすでに極まっており、1218年ジュべ率いるモンゴル軍に攻撃されパミール高原に逃亡するも間もなく捕殺されました。
 
 
 西遼の故地はチンギス汗の次男チャガタイに与えられます。生き残った契丹人はモンゴルに仕えたのでしょう。その後はようとして知れません。