前記事で可敦城は遼王朝がモンゴル高原支配の拠点として建設したと書きましたが、その後調べた結果ウイグル時代(744年~840年)に唐から迎えた和蕃公主(唐が異民族君主を懐柔する目的で嫁がせた皇女)の居城として築かせたのが最初だと分かりました。
ではその皇女は誰かという事ですが、はっきりとは分かりませんでした。有力なのは唐第12代徳宗皇帝(在位779年~805年)の娘咸安公主です。ちなみに可敦というのは古代トルコ語で皇妃を意味するハトゥンを語源とするそうです。ということから、ウイグルは咸安公主を迎えるためにシナ風の都城を築いた可能性が高いです。もっとも唐王朝を開いた李氏自体鮮卑族出身ですけどね。徳宗の時代はすでに安史の乱を受け王朝が衰退していた時代ですから、ウイグルはじめ周辺異民族がどう思っていたかわかりませんが、唐全盛期の2代皇帝太宗は北方遊牧民から天可汗と呼ばれ崇め奉れたそうですから、彼らが唐の皇帝は自分たちの仲間だと思っていた証拠です。
契丹族の興した遼は、ウイグル時代の可敦城を引き継ぎモンゴル高原支配の拠点として改修、拡張したのだと思います。契丹族は遊牧民ですが、支那支配のために北面官(遊牧民担当)、南面官(農耕民族担当)を設けて巧妙に支配しました。その意味では漢化した鮮卑族の北魏に似ていますが、さらに上手く統治したと言えるかもしれません。
のちに遼の王族だった耶律大石が、王朝滅亡後可敦城に逃げて態勢を立て直したのもここが軍事的政治的に重要な場所で物資も集積されていたからでしょう。その後西進した耶律大石は中央アジアに西遼(カラキタイ)を建国しますが、遼の制度を受け継いだのならオアシス定住民担当の南面官、遊牧民担当の北面官を設けて支配しやすかったと思います。
耶律大石が可敦城に来た時、モンゴル高原の遊牧民はみな従ったそうです。彼らにしたら遼を滅ぼした女真族の金は半農半牧で遊牧民らしくなく、純粋遊牧民の契丹族の方に親近感があったのでしょうね。同じモンゴル系ですし。女真族はツングース民族なのでその意味でもモンゴル諸族から見たら異質でした。
しかし遊牧民族で長期に安定した王朝を築いたのは女真族やトルコ民族のように半農半牧の民族でした。遊牧民族と農耕民族の良いとこ取りできるのが強みだったと思います。軍事は遊牧民的、統治は農耕民的に、という風に。純粋遊牧民族国家は勃興するときは甚だしくとも農耕民族支配が安定しないためあっけなく滅びます。エフタルやフン族が典型です。
そう言えば面白いエピソードを思い出しました。元王朝時代、支那本土に領地を貰ったモンゴル貴族(汗に近い皇族だったような気も?)が住民をことごとく殺して放牧地にしようとしたことがあったとか。これを聞いた宰相の耶律楚材(契丹族出身、遼の遺臣)が税収の大切さを説いて止めさせたと言われます。さすがにいくらモンゴル人でもここまで馬鹿じゃないと思いますよ。これは耶律楚材の功績を称えるために作ったフィクションだと信じたいです。
遊牧民は平時には農耕民と交易し自分たちで作れない物資(絹とか茶など)と馬を交換していましたから農耕民族の重要性は知っていたはず。農耕民を殺したら誰が税を納めるんですか?誰が食料や物を作るんですか?
可敦城は耶律大石が去った後もモンゴル高原の隊商貿易の中心地として栄え、ここを拠点としたケレイト族のトオリル汗はモンゴル随一の勢力を誇りモンゴル族テムジン最大の敵として立ちはだかりました。可敦城は中世の一時期モンゴル高原の中心地だったと言えるでしょう。