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モンゴル台頭前の東アジアⅠ  遼(契丹)

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 満洲平原を南流し渤海湾にそそぐ大河、遼河。上流は二つに分かれ吉林省に源流を持つ東遼河と、河北省北縁の山岳地帯を源流とし大きく弧を描くように内蒙古自治区を東流しながら合流する西遼河があります。
 
 遼河沿いには古来鮮卑族宇文部の流れをくむ奚(けい)という民族がいました。だいたい4世紀ころには史書に現れます。遼河下流域は肥沃で農耕に適した土地だったそうです。奚は遊牧民族とは云いながらかなり農耕に比重を置いた生活をしていたようです。
 
 一方、遼河上流域は遊牧に適した土地で、奚からわかれた部族がそこで遊牧生活をしていました。彼らは契丹と称します。同じ鮮卑族拓跋部(たくばつぶ)は北魏を、契丹とは同系の宇文部も北周を建国し、隋唐王朝もその流れをくむ鮮卑系王朝だったのに対し、契丹は唐代を通じて目立った動きはありません。
 
 ところが、唐代末期の10世紀契丹族耶律阿保機(872年~926年)という英雄が出現します。契丹の8つの部族を統一し916年にはテングリ・ハーン(天可汗)を称し自立します。阿保機は遼河沿いに進出し同系の奚をも併合しました。
 
 東は狩猟民族女真を攻めて服属させ、西のモンゴル高原にも進出します。阿保機は遼河にちなんで国号を支那風に「遼」と称しました。
 
 926年には海東の盛国と呼ばれて栄えていた渤海満洲東部から沿海州朝鮮半島北部に広がっていた国)を滅ぼし俄かに強大化しました。阿保機は渤海遠征の帰途、扶余城で病死します。後を継いだのは次男の堯骨。死後支那風に太宗と諡(おくりな)されるので以後太宗(在位926年~947年)と記します。
 
 
 その頃支那本土は五代十国の大乱期でした。突厥系沙陀族の建国した後唐(こうとう)では激しい内紛が起こり、将軍の石敬瑭(せきけいとう)は権力奪取のためにあろうことか遼の太宗に援助を求めます。代償は燕雲十六州(現在の北京から大同にまたがる支那北縁の土地)割譲でした。
 
 
 自分の仕える王朝を滅ぼすために外国に援助を求めるのは言語道断ですが、石敬瑭は遼軍の援助で権力闘争に勝ち後唐を滅ぼして自らの王朝「後晋(こうしん)」を建国しました。
 
 燕雲十六州問題は後々まで尾を引きます。漢人が建てた後周、そして北宋も強力な遼軍が守る十六州を回復できず滅びました。
 
 
 一方、遼にとって長城線の内側にまたがるこの地を得た事は大きな利益でした。太宗は、農耕民統治を本格化させ遊牧民に対しては北面官、農耕民に対しては南面官を儲けて支配します。遼の漢人支配は以後台頭した女真族の金、モンゴル族の元でも継承されました。このような遊牧民族による漢人支配体制を征服王朝と呼びます。
 
 
 趙匡胤が建てた久々の漢人による統一王朝「宋」は長城線の内側に遊牧民王朝の領土があるのに我慢できず、979年燕雲十六州に侵攻しました。宋はその威信にかけて戦いを続けましたが、歩兵中心の宋軍は騎兵が主力の遼軍に完敗します。
 
 
 結局、1004年名目上は宋を兄、遼を弟としたものの宋は遼に対して毎年絹二万匹、銀十万両という莫大な贈り物(歳幣)を贈るという屈辱的な和平条件を飲まされました。これを澶淵の盟(せんえんのめい)と呼びます。
 
 
 宋は、北宋南宋を通じて軍隊の弱い王朝でした。文化と経済は栄えますが、その分軍事力がおろそかになったのでしょう。澶淵の盟は両国の間に一応の平和をもたらします。しかし宋は、戦で勝てなかっただけにこの恨みは内攻しました。 
 
 
 遊牧王朝というのは貿易を重視します。遼王朝も例外ではなくシルクロードや草原の道を通じての東西貿易の他に、なんと日本にまで使節を送ったそうです。対日貿易は上手くいかなかったようですが、東西貿易の原資は宋からの歳幣だったのですから、元手はタダ。遼は莫大な利益をあげます。これもまた宋にとっては悔しかったのでしょう。
 
 
 遼は、森林が多く遊牧に適さない満洲東部はほとんど放置します。そこに住む女真族の首長完顔阿骨打(かんわんあくだ)が1114年寧江州(ハルビン西南100キロ)を攻撃して陥落させた時もほとんど対応できませんでした。
 
 
 阿骨打は、女真族をまとめ上げ国号を「大金」と称し、公然と遼の支配に挑戦します。遼はその頃東西貿易によってもたらされた贅沢品に慣れ昔の精強な遊牧民族としての力を失っていました。金討伐軍は連戦連敗、次第に領土を蚕食されていきます。
 
 
 これを見ていた宋の宮廷は、1118年海路秘かに完顔阿骨打に使者を送り遼を挟撃しようと持ちかけます。金が北から、宋が南から同時に攻めようというのです。
 
 阿骨打に示された条件は、宋が遼に贈っていた歳幣を金に振り替える事、金はこの戦争で長城線を越えない事、燕雲十六州に関しては燕京は宋が攻め、大同は金が攻めるも戦後十六州の帰属は宋に帰する事といういささか虫の良い要求でした。
 
 
 ところが宋の遼討伐軍は、出陣前に起こった江南の方臘の乱鎮圧に振り向けられたため出発が遅れ、しかも金との戦争で疲弊していたはずの遼の燕京留守部隊にさえ負けるという醜態を晒します。
 
 
 
 1122年、それでも阿骨打は約束通り大同を落としました。遼最後の皇帝天祚帝(てんそてい)はたまらず山西の陰山に逃亡しました。一方、宋は燕京さえ陥落させる事が出来ず可骨打に泣きつきます。金軍は宋軍を助けて燕京を落としました。
 
 
 燕京にいた漢人官僚たちはそのまま金の支配下になる事を願いますが、阿骨打は約束通り兵を引きました。しかし宋は約束を破ります。歳幣を反故にしたばかりか陰山に逃げた天祚帝と秘かに連絡を取り金追い落としさえ画策したのです。
 
 1125年陰謀は発覚しました。烈火のごとく怒った金は軍を再び南下させます。落ち目の遼軍にさえ勝てない宋軍は鎧袖一触、瞬く間に滅ぼされて徽宗(当時は上皇)、欽宗以下宋の皇帝一族はことごとく捕えられ満洲の北辺に幽閉されます。陰謀の代償は高くつきました。宋室で一人だけ逃れた康王(徽宗の第9子、欽宗の弟)は江南に逃れ南宋を建国します。
 
 
 
 1125年、遼の天祚帝は金軍に捕えられ滅亡しました。その少し前王族の耶律大石は一部の契丹人を率いてモンゴル高原に逃れさらに西に向かって中央アジアに新たな国を建国しました。これを西遼またはカラ・キタイ(黒い契丹、または大きな契丹の意味)と呼びます。
 
 
 ただ大部分の契丹人はそのまま金王朝に仕え、金がモンゴルに滅ぼされると元朝に仕えました。有名な耶律楚材も遼の遺臣の子孫の一人です。