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モンゴル台頭前の東アジアⅣ  西遼(カラ・キタイ)   前編

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 一度滅亡した王朝が再興したことは世界史上めったにありません。というのは滅亡するにはそれ相応の理由があるためで、生き残った王族や遺臣がいかに頑張っても覆すのは容易でないからです。
 
 しかし、王朝再興に成功した稀有の例もないわけではありません。例えばウマイヤ家の皇子でアッバース朝の討手に追われながらシリアからイベリア半島への長い逃避行の末後ウマイヤ朝を創始したアブドルラフマーン(アブドゥ・アッラフマーン・ブン・ムアーウィア)1世。そして今回紹介する西遼(カラ・キタイ)の創始者耶律大石(1087年~1143年)です。
 
 実は両者とも私の大好きな人物で、ブログを開始したごく初期の頃「世界史英雄列伝」で紹介しました。今回ある程度資料がそろったので本格的に彼の人生に迫ってみたいと思ったのが本シリーズを書いたきっかけです。
 
 
 耶律大石は、遼を建国した契丹族の首長耶律氏の一族です。といっても大石の先祖は、初代耶律阿保機の末子(第4子)耶律牙里果から始まっていますから遼室からはかなり離れています。大石は牙里果7世の子孫にあたります。
 
 大石が生まれたころは王朝末期でした。遼史では天慶5年(1115年)科挙の状元(第一等の成績)となり翰林院に進んだとありますが、帝室の一族として優遇措置があったはずで本当にトップの成績だったかは分かりません。
 
 
 平和な時なら、順調に官位を進み大官に出世して生涯を終わったはずでした。ところが遼の東には女真族の金朝が勃興し、遼は金と宋の挟み撃ちに遭い存亡の危機に見舞われます。1122年宋軍は15万の大軍で国境を越え遼の当時の首都燕京(現在の北京)に迫りました。
 
 遼の皇帝天祚帝は、宋と同時に攻め込んだ強敵金軍に対抗するため大同の陣中でした。主力が出払った燕京にはわずかな守備兵しかいなかったといいます。大石は宰相李処温と相談し第7代興宗の孫(天祚帝にとっては叔父)耶律涅里を無理やり擁立し天錫帝と名乗らせました。
 
 
 史書ではこれを遼と区別して北遼と呼ぶそうです。大石は軍事統帥として燕京の軍隊を掌握します。宋軍は大軍ではありましたが、大石は長年の観察から士気が低いと判断し自ら軽兵を率いて撃って出ます。白溝河というところで両軍はぶつかり、大石は宋軍をさんざんに打ち破りました。
 
 
 大石はこの段階で宋とは講和し最大の強敵金に当たろうとしますが、宋軍の総大将童貫(水滸伝でも有名な悪宦官。宰相・太尉・領枢密院を兼任していた)は北遼の足元を見てこれを拒否。そればかりか漢人の宰相李処温に密使を送り寝返りさえ勧めました。
 
 
 大石は、自らの情報網でこれを察知すると李処温を斬り危険を未然に防ぎます。そんな中老齢であったのか心労による病気か分かりませんが天錫帝は崩御します。大石は皇太子だった秦王耶律定を奉じ抵抗を続けました。
 
 宋軍単独では北遼軍に勝てないと悟った童貫は、大同を攻略し山西の陰山に逃亡した天祚帝を追撃中の金の皇帝完顔阿骨打に泣きつきます。阿骨打は宋のあまりにも虫の良い要求に憤慨したそうですが、追撃戦を一時中断し軍を燕京に振り向けました。
 
 
 大石は、居庸関で金軍を防ごうとしますが敗北して捕えられました。指導者を失った燕京政府は瓦解します。金の皇帝完顔阿骨打は大石の将器を認めこれを厚遇しました。しかし1123年大石は隙を見て秦王を奉じ脱出、天祚帝のもとへ向かいました。
 
 ところが天祚帝は、大石が自分を差し置いて勝手に皇帝を擁立した事を怒り責めます。大石は天祚帝が逃亡したから仕方なく擁立したと強弁し、皇帝は一言も言い返せなかったそうです。
 
 
 しかし、この事件の後両者の関係はぎくしゃくし始めます。大石にとっては、天祚帝が敵であるはずの宋と秘かに連絡を取って金軍に逆襲しようとした事も気に入らなかったようです。天祚帝も人望の厚い大石が近くにいては自分の権力が危ないと思い始めていました。
 
 このまま天祚帝のもとにいたらわが身が危ないと悟った大石は、機会を持ちました。1124年、金軍が天祚帝を捕縛するため軍隊を差し向けてきたという報告を受けると自分に心服する契丹族の軍隊200騎余りを率いてモンゴル高原に脱出します。
 
 
 果たして大石に勝算はあったのでしょうか?後編ではモンゴル高原における大石、そして西遼の建国を描きます。