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モンゴル台頭前の東アジアⅡ  金(女真)   後編

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                            ※南宋の忠臣として名高い岳飛
 
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              ※現代でも売国奴として支那人の憎しみを買う秦檜夫妻の像
 
 
 水滸伝岳飛の物語に幼いころから親しんできた私は、支那贔屓でした。ところが大人になってから改めて歴史を調べてみると宋の滅亡は自業自得ではなかったかと考えが変わります。かえって宋の朝廷に翻弄された女真に同情さえ覚えるようになりました。
 
 それはともかく、もともと漢族の住む土地を支配する気のなかった金は占領した華北の地に宋人の傀儡政権「楚」や「斉」を建てて間接支配を行おうとします。しかしこれは失敗し、結局本拠地を華北に移し本格的な異民族支配に臨みました。
 
 
 支那大陸は俗に南船北馬と呼ばれます。黄河と長江の中間にある淮河を境に、北は馬の移動に便利な平原、南部は河川やクリークが縦横に走る湿地帯が連続していました。
 
 
 金軍は江南に逃げた高宗を追って淮河を渡りますが、岳飛などの義勇軍に阻まれて追い返されます。腐敗しきった宋の官軍は役立たずでしたが、祖国の危機に立ちあがった義軍は士気も高く手強い相手でした。
 
 岳飛(1103年~1143年)は、豪農出身で1122年開封防衛の義軍に応じ軍功をあげ頭角を現します。1134年には宋の節度使に任じられました。岳飛の率いる岳家軍は任侠によって結ばれており結束の強い軍隊でした。湿地帯での対騎兵戦術に長じ人ではなく馬を斬る斬馬刀や籐で作られた軽くて丈夫な盾など創意工夫で金軍と戦います。これは士気の低い官軍では出来ない芸当でした。
 
 
 金は、かつての北宋の首都開封を根拠地として南宋攻略を本格化させます。岳飛などの活躍で局地的な勝利はありましたが、大勢は金軍が押し気味でした。しかし騎兵が主力の金は長江を渡って南宋の本拠地を攻撃する自信が持てず1138年第一次の和議が成立します。主戦派の和議反対など紆余曲折がありましたが、結局1142年淮河を両国の境とする第二次講和が成立します。
 
 金が兄、宋が弟という宋にとっては遼よりもさらに屈辱的な内容でした。歳幣も銀25万両、絹25万匹と増額されます。
 
 
 和議成立によって、金に拘留されていた高宗の母は帰国を許され、異郷で亡くなっていた徽宗上皇の棺も返されます。しかし高宗の兄欽宗の帰国は弟高宗によって拒否されました。高宗の皇位継承に疑問を持つ勢力があって帰国した欽宗を担ぐ事を警戒したからだと伝えられます。
 
 
 南宋では、1130年すでに金から解放されていた秦檜(しんかい)が宰相になっていました。金との和平交渉を担当した秦檜は金の恐ろしさ実力を熟知しておりまともに戦ったらとても勝てないと考えていました。金のスパイではないか?という声も当時からあったそうですが、秦檜にとっては和平こそが南宋生き残りの最善の策だと信じていたのだと思います。
 
 秦檜の弱腰外交は主戦派の岳飛らの反発を招きます。1140年岳飛ら主戦派は秦檜の意向を無視して北伐を開始。一時は開封を間近にするまで進みます。しかし金との全面戦争を望まない秦檜は、岳飛に無実の罪を着せて処刑し北伐を中止させました。
 
 これだけをみると秦檜はとんでもない売国奴のように見えますが、彼の動きは皇帝であった高宗の意向なくしてはできません。高宗自身が、安泰を望み金と全面戦争に突入するのを避けたかったと解釈するのが自然です。
 
 
 まさか皇帝を非難するわけにはいきませんから、人々の憎しみが秦檜に集中したのでしょう。このあたり石田三成と似ていますね。
 
 岳飛など主戦派を粛清した秦檜は、1142年金との講和を成立させ両国に平和が到来します。南宋は、北伐を諦めた代わりに交易に力を入れ経済が発展し空前の繁栄期を迎えました。
 
 金も、遼の漢民族支配を踏襲し統治は安定します。1124年西夏を、1126年には高麗を服属させていましたから今回の宋の屈服でまさに中華皇帝の実力を持ちました。
 
 
 金の3代皇帝熙宗(きそう、在位1135年~1149年)の時代、女真人は大挙華北に移住しさしもの精強を誇った金にも陰りが見え始めます。遊牧民族が漢化した途端弱くなるというのは北魏然り、遼然り、そして金然りでした。歴史の必然の流れなのかもしれません。
 
 
 宋との和平で安心したのか熙宗は酒に溺れ政治を顧みなくなりました。熙宗の従兄海陵王完顔迪古乃(かんわんてくない)は、朝廷内で宰相格の重職を歴任していましたが、熙宗が人心を失ったのを見てこれを廃し殺害します。みずから皇帝に立ち1153年首都を会寧府から華北の燕京(中都)に移しました。官制改革に取り組むなど積極的な統治を行います、さらに支那大陸の統一を目指し1161年南宋攻撃の準備を命じました。
 
 ところが平和に慣れていたモンゴル高原契丹人たちはこれに反発、反乱を起こします。海陵王は強引に南宋征伐に向かいますが軍の士気が上がらず失敗、北に戻ろうとして部下に殺されます。
 
 即位の事情も簒奪に近いものでしたから、帝位に就いた事も否定され史書には海陵王とだけ記されました。
 
 
 海陵王のあとは、皇族の烏禄が擁立されます。世宗です。世宗は北進してきた南宋軍を撃破し契丹族の反乱も鎮圧します。同時期南宋でも明君として名高い孝宗が立ったため、両国の間に講和が成立し以後40年間の平和をもたらしました。
 
 
 世宗は、内政に力を尽くし大定の治と呼ばれる安定をもたらします。しかし1189年彼の後を継いだ章宗(世宗の皇太孫。世宗の父皇太子完顔胡土瓦は早世)は北宋徽宗皇帝に憧れる暗君でした、甘やかされて育ったせいか徽宗同様書画に懲り政治を顧みなくなりました。
 
 その頃モンゴル高原では、タタール契丹の反乱が相次ぎます。遼が満州地域を軽視したのと同じく、金は遊牧民の住むモンゴル高原を軽く見ていました。自ら鎮圧するよりも土地の有力者に命じて鎮圧させる方法を取り、そのためにケレイト族などの台頭を招きます。1207年チンギス汗が即位しモンゴル高原を統一したのも金のモンゴル軽視が原因の一つでした。
 
 1208年、病死した章宗に代わって金の7代衛紹王(章宗の叔父筋の傍系王族)が即位するとチンギス汗は金への朝貢を拒否します。そのまま断交し1211年には金領に侵攻しました。金軍は各地で敗退を重ね宮中では胡沙虎のクーデターが起こり衛紹王は殺されます。
 
 胡沙虎も間もなく殺され宣宗が後を継ぎますが、モンゴル軍には敵しがたくついに降伏します。毎年歳貢をモンゴルに贈る事、金の皇族の娘をチンギス汗に嫁がせることなど屈辱的な条件でした。
 
 
 ところが1214年、金はモンゴルの圧力を恐れ首都を燕京から南の開封に移します。チンギス汗はこれを背信行為と詰り軍を南下させました。半年以上の籠城戦の末開封は陥落します。金は黄河以北の領土を失い河南の一地方政権に落ちぶれました。
 
 モンゴルは、金の存続を許さずその後何度も侵略を繰り返します。金は完顔陳和尚(かんわんちんわしょう、1192年~1232年)などの活躍で何度かモンゴル軍を撃退しますが、大勢を覆す事は出来ず1232年三峰山の戦いで主力部隊が壊滅、1234年には首都開封も包囲され占領されました。
 
 金の皇帝哀宗は首都を脱出しなおも戦い続けますが、モンゴルと南宋軍に挟撃され自殺、後を継いだ末帝は即位後わずか半日でモンゴル軍に捕えられ処刑されました。こうして金王朝は滅亡します。
 
 
 それにしても南宋の愚かさはどうでしょう?遼を滅ぼすために金を引き入れ、今度は金を滅ぼすためにモンゴルに協力したのです。南宋も結局最後はモンゴルに滅ぼされることになります。
 
 
 王朝の勃興と滅亡を見てくると感慨深いですね。繁栄すればするほど滅亡が哀れです。ほとんどの民族は一度王朝を打ち立て滅亡すると歴史の表舞台から消えます。ところが女真族は長い雌伏の末再び立ち上がり大帝国を築きました。すなわち「清」です。 この奇跡のようなバイタリティはどこから来るのでしょうか?とても不思議です。