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大セルジューク朝最後のスルタン、アフマド・サンジャル

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 大セルジューク朝第8代スルタン、アフマド・サンジャル(1086年~1157年)。記憶力の良い方なら西遼(カラ・キタイ)を建国した耶律大石と1141年カトワン平原で戦ったスルタンとして覚えておられるでしょう。彼こそ分裂する前の最後のセルジューク朝スルタンでした。

 系図を見ると分かる通り、第4代のマフムード1世から第8代のサンジャルまで全員第3代マリク・シャーの子供か孫です。どうしてこういう複雑なスルタン位継承になったかは、大宰相ニザーム・アル・ムルク暗殺がきっかけでした。第3代スルタン、マリク・シャーは宰相ニザームを信頼しきっていました。しかし家庭内のごたごたを纏める事はできず、外征にうつつを抜かします。そのため皇后テルケン・ハトゥンの専横を招き、彼女は自分の息子マフムードを次期スルタンにすべく暗躍しました。その結果がマフムードの異母兄(先妻の子)バルキヤールクを推すニザームの排除でした。自分の欲望のためにイスマイル教団という暗殺者教団を引き入れたことで、その後のスルタン位継承は大混乱をきたします。

 戦場でニザームの暗殺を聞いたマリク・シャーは嘆き悲しみますがだからといってテルケン・ハトゥン一派を排除する気力はなく、心労から病に倒れました。そしてニザーム暗殺と同年1092年37歳の若さで亡くなります。後を継いだのはテルケン・ハトゥンの実子マフムード1世でした。ところが、本来正統な後継者だったバルキヤールクはこれに異を唱え、ニザームの育てたイラン人官僚と共に反旗を翻します。争いは延々と続き結局マフムード1世とバルキヤールクで帝国を二分する事になりました。その後1094年11月、マフムード1世は天然痘で亡くなります。わずか6歳でした。

 そのためバルキヤールクが即位し単独のスルタンとなります。セルジューク朝が混乱していたため1099年第1回十字軍が襲来した時満足な対応ができずエルサレムを奪われるという失態を演じました。当時セルジューク朝内部では、一族が互いにあい争い分裂騒ぎを起こしていたのです。1104年12月、バルキヤールクは失意のうちに亡くなりました。享年25歳。

 後を息子のマリク・シャー2世が継ぎますが幼帝だったため叔父ムハンマド・タバルにスルタン位を奪われます。公式には病死とされますが、ドロドロの家督争いのさなかですから信用はできません。ムハンマド・タバルは混乱したセルジューク朝を鎮めるため実弟アフマド・サンジャルにホラサン地方以東の領土を任せ共同統治者とします。

 ムハンマド・タバルは帝国混乱の元凶をニザームを暗殺したニザール派の過激暗殺集団イスマイル教団だと決めつけ、激しい弾圧を加えました。1107年にはニザール派の大幹部アフマド・アッターシュを捕え首都イスファハーンにおいて残酷な方法で処刑します。1118年ムハンマド・タバル死去。弟アフマド・サンジャルが第8代スルタン位を継ぎました。

 サンジャルは、首都を自分の根拠地ホラサンの主邑メルブに移します。サンジャルは分裂しつつあったセルジューク帝国の再統一者でした。各地に割拠していた親戚たちに宗主権を認めさせ、対外的にはガズナ朝を1115年軍事的に屈服させ属国としました。先代スルタン、ムハンマド・タバルには実子マフムード2世がいてイラン高原で自立、サンジャルと敵対します。

 サンジャルは、遠征して甥マフムードを降し屈服させました。その後も占領下のガズナ、イラン高原では何度か反乱がおこりますが、サンジャルの支配を揺るがすまでには至りませんでした。このまま行けば、サンジャルは帝国中興の祖として歴史に名を残していたと思います。しかし、危機は突然やってきました。



 耶律大石(1087年~1143年)は、スルタン・サンジャルとほぼ同世代の人物です。モンゴル系(あるいはツングース系とも言われる)遊牧民契丹族が建てた征服王朝遼の王族耶律氏の一族でした。祖国遼が女真族の金に滅ぼされたため、遼の遺民とモンゴル高原遊牧民を引き連れ、新天地を築くため中央アジアに向かいます。

 そこには東西に分裂し衰えていたカラ・ハン朝がありました。支配下の各民族は離反し、1137年耶律大石率いる遼軍が攻め込んだ時ろくに抵抗もせず滅ぼされます。耶律大石は、ベラザグン(キルギス共和国首都ビシュケクイシク湖の間を流れるチュー川流域)を都と定め、フスオルダと改名しました。彼の帝国は西遼あるいはカラ・キタイと呼ばれます。

 耶律大石の制服事業は続きました。1141年にはシルダリヤを越えトランスオクシアナに遠征しホラズムを臣従させます。この一連の動きは、ホラズムとカラ・ハン朝の宗主権を持っていたセルジューク朝サンジャルに危機感を抱かせました。東方から来た未知の民族によってせっかく統一したセルジューク朝の安定が揺るがされるのはサンジャルには我慢できなかったのです。

 サンジャルは、契丹と称する異民族を討つため1141年9月七万の騎兵軍を動員します。急報を受けた耶律大石も、軍を率いて出陣しました。この時の西遼軍の兵力は不明ですが、後の金遠征軍の規模から考えると五万から七万はいたようです。両軍は、トランスオクシアナの中心都市サマルカンド近郊カトワン平原でぶつかりました。

 同じ騎兵を主力とする遊牧民族同士。勝敗はどちらに転ぶか分かりません。ところが結果は西遼軍の圧勝。どちらもルーツはモンゴル高原とその周辺部から発生した遊牧民。力は互角だったはず。私が考えるに、セルジューク軍は長年イランやトランスオクシアナの文明地帯での生活に慣れ野性味を失っていたのではないでしょうか?反面、耶律大石軍は祖国を追われ負ければ後が無いため必死に戦ったのだと思います。必死な者と、負けても本国に帰れば安楽な生活が待っている者、勝敗の結果はすでに戦う前から決していたのかもしれません。

 大敗を喫したサンジャルは、命からがら首都メルブに逃げ帰ります。カトワン平原の敗北でセルジューク朝スルタン・サンジャルの威信は地に落ちました。ただ、サンジャルにとって幸運だったのは耶律大石がこれ以上西進せず、金への復讐を誓い遠征軍を東に向けた事です。耶律大石は、その遠征途中陣没し波乱の生涯を閉じます。享年58歳。

 その頃帝国の本拠ホラサン地方には、西遼建国によって祖国を追われたトルクメン人たちが数多く逃げ込んできていました。彼らはオグズと呼ばれ、セルジューク人と先祖を同じくする民族です。急激な人口増加はセルジューク朝の支配を揺るがし始めました。1153年、そのトルクメン人たちがアフガニスタンで反乱を起こします。鎮圧に向かったサンジャルはバルフで敗北、捕虜となりました。虜囚生活3年。この間、ホラズム、ゴール朝などセルジューク帝国に服属していた国々が相次いで独立、セルジューク朝の一族である地方政権も自立していきます。

 虜囚生活の間、サンジャルは一応形式的にはスルタンとして扱われます。しかしその実質はトルクメン人アミール(イスラム世界の君主号の一つ。軍事指揮官という意味合いが強い。スルタンよりは権威が低い)たちの傀儡でした。昼間には玉座に座らされ、夜は監獄に閉じ込められるという惨めな生活を強いられます。

 3年後、サンジャルは何とか脱出に成功しメルブに帰還しました。ところが虜囚生活で健康を害し1157年72歳で病没します。サンジャルには実子がいませんでした。彼の死でセルジューク朝の王統は断絶。宗主権のもとかろうじて繋ぎとめていたセルジューク帝国は分裂の時代に突入します。

 その中の一つ、アナトリア半島小アジア)を中心にしたルーム・セルジューク朝は十字軍戦争初期の主役として1308年まで続きました。