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モンゴル遊牧国家の首都とオルホン川

 久々の世界史記事、それもマイナーな話題で恐縮です。ほとんどの人は興味ないと思いますのでスルーしてください。過去記事『モンゴル五大河川と地勢』でモンゴル高原を本拠地とする遊牧国家(シナ呼称行国)は、モンゴル高原の中央を流れるオルホン川かその支流に本拠地を設けることが多いと書きました。

 モンゴル帝国の首都カラコルムもそうだし、ウイグル帝国の首都カラ・バルガスンもです。満洲南東部に興った契丹民族が建てた遼もモンゴル高原支配の拠点として可敦城を築きましたが、これもオルホン川の支流トーラ川沿いにありました。そして現在のモンゴル国の首都ウランバートルもトーラ川流域です。

 何で今回取り上げたかというと、匈奴帝国の首都ルウトホト(シナ呼称竜城)が発見されたという記事を見たからです。とはいえ一月前の記事を今頃私が知ったという事ですが…。このルウトホトもやはりオルホン川沿いだそうです。ただ皆さんが思い描くような首都の姿ではなかったと思います。というのも遊牧国家は常に移動しており農耕民族のようなしっかりとした都城ではなかったからです。

 遊牧国家の首都を王庭(単于庭、可汗庭ともいう)といいますが、通常三方を山などの障壁に守られ一方を平野に面する要害の地に築かれます。建物は無く単于の大テントを中心とした数多くのテント群で占められていました。後年になるとシナ文化を取り入れ城壁を持った都市が築かれますが、それはウイグル以降だといわれます。ただ、単于や貴族などは定住を嫌いしばしば都を離れ大テントを設けて暮らしていたとされます。

 ならばどうしてシナ風の都市が必要かというと、武器や家具、道具を作らせるための職人の家が必要だからです。農耕民族にテントに住めと言えば嫌がりますからね。その職人たちは遊牧民族が農耕民族国家を攻めたり略奪した時に連行した捕虜。職人たちにとっては、そもそもモンゴル高原に連れてこられたこと自体嫌だったとは思います。

 ちなみに、モンゴル高原を本拠とした遊牧国家のうち柔然は首都不明、突厥の首都はウテュケン山と言われますからハンガイ山脈のどこかだと思われます。突厥の王庭がもしかしたら本来の王庭らしい王庭だったのかもしれませんね。

 遊牧国家が本拠地を大河川の近くに設けたのは、水が無ければ生きていけないからです。普段は馬で移動したとしても緊急時には船での移動もあったのでは?と想像します。となればモンゴル高原の中央を流れ各地とも連絡しやすいオルホン川流域に本拠地を設けるのは自然だったのでしょう。

 話は戻りますが、匈奴の首都(というか本拠地)ルウトホトの全容解明してほしいですね。おそらくは大小のテント群、可能性は低いがシナ風の都城もあります。というのも匈奴もシナ本土から数多くの漢人を連行しているからです。李陵とか有名ですよね。ただ張騫(漢の武帝匈奴を攻めるために大月氏国に派遣した使者)が匈奴に捕らわれたとき暮らしていたのはテントだったそうですかこればかりは分かりません。