鳳山雑記帳はてなブログ

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ウイグル帝国とカラ・バルガスン遺跡

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 最近世界史書庫は単発記事が続きますが、これは前回の『ポル=バジン遺跡』の続きです。

 ポル=バジン遺跡が1200年前のウイグル帝国時代の遺跡で、ウイグルの首都カラ・バルガスンと構造が似ていると書きました。ではカラ・バルガスンがどこにあるか興味を覚え調べてみたのです。

 モンゴル人民共和国の首都ウランバートルの西にあります。場所はアルハンガイ県。広大な草原の中にあるのでグーグルマップで見つけるのも一苦労ですが、まずオルホン川を見つけてください。その西岸です。県都のツェツェルレグから東のオルホン川に向かってください。アルハンガイとウブルハンガイ県の境界線のちょっと上(オルホン川西岸)に見つかります。ただし、アメリカはあまりモンゴルを重要視していないため解像度は悪いです。拡大するといきなりピンボケになります(苦笑)。

 ぱっと見、ポル=バジンと確かに構造が似てますね。カラ・バルガスンというのはモンゴル語で「黒い都市」とか「廃墟の都市」を意味するそうです。契丹族の耶律大石が中央アジアに建国した西遼を現地の人たちはカラキタイ(黒い契丹)と呼んだそうですが、カラというのが黒という意味なのでしょう。

 ちなみにカラ・バルガスンは遺跡の名で、当時はオルド・バリクと呼ばれていました。これも古代トルコ語で「可汗庭」の意味です。支那史書で遊牧国家の都を王庭と呼びますが、古代トルコ語の漢訳なんでしょうね。王庭は、三方を山に囲まれ開けた一方は川が流れるなど要害の地に建設されます。ただ遊牧国家なので建築物はなく可汗の大規模なテントを囲む無数のテント群で構成されるのが本来の王庭でした。

 ところがカラ・バルガスンは東にオルホン川がある以外はだだっ広い平原で要害のよの字もありません。しかし支那風の城壁が囲みます。解像度が悪いので詳細は分かりませんが、城壁は支那風の版築工法で作られているようです。支那風の建物があった痕跡も見えます。

 ウイグルは、拡大していくにつれ遊牧民族のテントから少なくとも可汗や貴族層は定住生活を送っていたのでしょう。ウイグルの先祖は丁零だと言われます。後に大帝国を築く突厥(トルコの漢訳)とも同族のトルコ系民族でその違いは、自分たちの部族集団の名前でした。日本風に分かりやすく言うとトルコが民族名なので大和民族にあたります。ウイグルとか丁零というのは源氏とか平氏に当たると思います。ですから、突厥ウイグルも民族としては一緒です。さらに言えば、遊牧国家は単一民族というのはあり得ず、拡大の過程で様々な民族(モンゴロイドコーカソイド問わず)を糾合するので国名は支配部族の名前の違いだと解釈すれば間違いありません。

 ですからウイグル匈奴の後裔とも言えるし、突厥とも同族と言えるのです。同じアルタイ語族のトルコ(チュルク)諸語を話す民族です。ちなみにフン族匈奴の後裔と言えますが、間違いなく匈奴に所属した様々な民族が加わっていたはずで、その意味では末裔で間違いありません。これはアバールとかマジャールにも言えます。遊牧民族は簡単に離合集散できます。移動手段が馬で機動力がありますからね。

 これが農耕民族だと、定住してなかなか移動しないので異民族が侵攻してきて負けたとき吸収されるか滅ぼされるかしか選択肢が無いのでしょう。ただ逆に民族的アイデンティティ(自己同一性)は保てたと言えますね。

 ウイグルは、トルコ族(せまい意味で。セルジューク族とかオスマン族の事)と同じく半農半牧の民族だったとされますから支那風の定住生活にも抵抗が無かったのかもしれません。これが純粋遊牧民モンゴル族の元になると、大都という壮大な都がありながら遊牧時代を懐かしみ夏は高原でテント生活をしていたそうですからね。





 国家としてのウイグルは742年東西に分裂したうちの東突厥の烏蘇米施可汗(オズミシュ・カガン)をカルルク部、バスミル部など突厥に支配されていた諸族と連合して滅ぼして成立します。その後ウイグル部の骨力裴羅(クトゥルグ・ボイラ)が744年諸族の争いに勝ちモンゴル高原を統一します。唐は彼を懐仁可汗(在位:744年 - 747年)に封じました。

 735年懐仁可汗は、東突厥最後の可汗白眉可汗を殺して完全に突厥勢力を滅ぼします。その後安史の乱では唐王朝を助けて戦いますが、これで唐の弱体化を知りその後は侵略を繰り返すことになります。唐はウイグルとの戦いでへとへとになり、最後は黄巣の乱で止めを刺されました。907年朱全忠によって滅ぼされます。

 一方ウイグルも、唐との交流(戦争や交易)で大量の物資を獲得し贅沢に慣れ支配層が堕落しました。オルド・バリクなどはその最たるもの。ウイグル帝国末期は内乱が続き、モンゴル高原は大干ばつなど異常気象が続きます。840年ユーラシア北部に興った同じトルコ系民族のキルギスに最後の可汗㕎馺可汗(こうそう?)を殺され滅亡しました。回鶻城(オルド・バリクか?)落城という記述がありますから、遊牧民族らしからぬ最期です。

 ウイグルの遺民は南に逃れシルクロード沿いのオアシス諸都市に定住します。天山ウイグル王国とか甘州ウイグル王国というのがそれでした。現在のウイグル人はその子孫です。