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出雲源氏塩冶(えんや)氏

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家系図武家家伝播磨屋さんから転載

 この記事は、北近江浅井三代記に登場する浅井氏の旧主家北近江・出雲・隠岐・飛騨守護佐々木京極氏の外伝です。一般の方にはマニアックすぎてついてこれないかもしれませんが、私はこの記事のためだけに『島根県の歴史』(内藤正中著 山川出版社)を買ったほど入れこんでいます。
 
 室町時代出雲国の守護は有名な佐々木道誉の子孫京極氏が就任しました。文明十八年(1486年)京極庶流で出雲前守護代尼子経久によって守護所月山富田城安来市広瀬町富田)を奪われ京極氏の出雲支配は終わります。戦国史に詳しい方は、その時月山富田城を守っていた京極氏の守護代が塩冶掃部介(えんやかもんのすけ)だった事を覚えておられるでしょう。
 
 実はこの塩冶氏も佐々木一族でした。ただ京極氏とは遠い関係になります。源平合戦時の近江源氏佐々木氏の当主は秀義(1112年~1184年)でした。秀義には有力な何人かの息子がいました。一番有名なのは源平合戦宇治川の先陣争いをした四男の佐々木高綱です。長男の定綱は佐々木氏の嫡流を継ぎその子孫から六角氏と京極氏を出します。
 
 実は鎌倉時代出雲の初代守護は、佐々木高綱だったという説があります。ただこれは確認できません。一方、長門国備前国の守護となったのは確実だと思います。高綱と出雲の関わりは源平合戦の軍功で獲得した多くの所領のなかに出雲国内の荘園の地頭職が含まれていたというものでした。高綱の子孫はその後振るわず出雲など各地に土着します。
 
 佐々木一族で確認できる確実な出雲守護職は、秀義の五男義清(生没年不詳)でした。義清は承久の乱で大功をあげ出雲・隠岐守護職を得ます。義清が出雲源氏佐々木氏の祖となります。以後彼の子孫が出雲国守護職世襲しました。義清の孫頼泰は神門郡塩冶郷に大廻(おおさこ)城を築き本拠と定めます。以後頼泰は塩冶氏を称しました。
 
 塩冶氏は、近江源氏嫡流の六角氏や京極氏とは一線を画し別家を意識していたと思います。そのため南北朝時代には当主塩冶高貞(不明~1341年)は後醍醐天皇隠岐脱出後真っ先に駆けつけ討幕軍に加わりました。高貞は建武政権でも出雲・隠岐守護職を安堵され出雲源氏塩冶氏は繁栄します。
 
 ところで江戸時代、赤穂浪士事件を題材とした仮名手本忠臣蔵では浅野内匠頭を塩冶判官高貞に仮託しています。一方敵役吉良上野介をモデルにしているのは高師直です。仮名手本では高貞の妻が美人なのに横恋慕した師直が高貞に謀反の濡れ衣を着せ滅ぼした事が事件の発端となります。
 
 ではそういった事実が高師直塩冶高貞との間にあったのでしょうか?塩冶氏はもともと宮方で、足利尊氏中先代の乱鎮圧後関東で自立した時も、新田義貞率いる討伐軍に加わります。その後同族の佐々木道誉が積極的に尊氏に寝返ったのに対し、塩冶高貞は時代の流れに抗しきれずやむを得ず尊氏に降伏したという経緯がありました。
 
 ですからもともと塩冶氏は足利幕府内で信頼されているわけではありませんでした。高貞の妻云々は、どうも高貞の正室顔世御前という人がもともと後醍醐天皇に賜った女官であることから生まれた伝承のような気がします。建武政権新田義貞にも恩賞として女官勾当内侍(こうとうのないし)を与えるなど有力武士の懐柔策としており、その一環として塩冶高貞にも女官を与えたのでしょう。土地を持たない建武政権の精一杯の努力だったと思います。
 
 一方、高師直は尊氏側近として幕府内で絶大な権力を握っており、性欲も人一倍あったため他人の妻を寝取るなど悪行の限りを尽くしていたようです。人間性にかなり問題があったのは間違いなく、彼と尊氏の弟直義との対立が後の観応の掾乱に発展しました。ですから、顔世御前に師直が横恋慕した事実はあった可能性が高いです。もっとも塩冶氏自体、足利政権としてはいつか排除しないといけない潜在的敵だと認識されていたはずで、師直の一件がなくともいずれ滅ぼされていたと思います。
 
 歴応四年(1341年)高師直は尊氏に「塩冶高貞に謀反の疑いあり」と讒言します。その事実があったのかどうかは分かりませんが、塩冶氏の幕府内での立場の弱さから言い逃れはできないと覚悟したのでしょう。これが佐々木道誉だったら尊氏邸に直接乗り込み、疑いを笑い飛ばして不問に付しそうな気もしますが(NHK大河ドラマ太平記陣内孝則のイメージ)、真面目な高貞(これもイメージ)ではそういう高度な処世術は不可能だったのでしょう。
 
 高貞は妻子と一族郎党を連れて京を出奔、本国出雲に向かいます。ところが幕府の追手山名時氏桃井直常らに追いつかれ播磨国影山で進退極まり一族郎党自害して果てました。これで出雲源氏の嫡流塩冶氏は滅亡します。その後出雲守護職は一時山名時氏に与えられますが、佐々木道誉が最終的に獲得し以後彼の子孫京極氏が世襲しました。
 
 塩冶氏庶流は生き残ったらしく、尼子経久の時に出てきた塩冶掃部介もその後裔でしょう。