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出雲尼子軍記Ⅱ 尼子清定の台頭

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※ 家系図武家家伝播磨屋さんから転載

 室町幕府守護大名から戦国大名に成長した常陸の佐竹氏、甲斐の武田氏、駿河の今川氏、周防の大内氏、豊後の大友氏、薩摩の島津氏などには共通した一点がありました。それは京都に上らず在国で支配を強化した事です。一方、細川氏、斯波氏、畠山氏、一色氏、山名氏ら幕府高官になった守護大名たちは京都での政争に明け暮れ、本国は守護代に任せたため応仁の乱以後急速に衰退しました。
 
 京極氏も京都組の一家ではありましたが、唯一のまともな守護領国である出雲の重要性を考え京都と出雲在国を半々くらいにします。京極高詮は出雲守護に返り咲いた1392年から亡くなる1401年の9年間のうち5年出雲に在国したそうです。それだけ出雲が難治の国だったのでしょう。
 
 前回、山名満幸の反乱を描きましたが実は明徳の乱(1391年)の一環でして、当時山名氏は当主氏清や満幸ら山名一族で山陰・山陽・畿内11か国の守護を務め六分一殿(全国が六十余州)と呼ばれるほど強大な勢力を誇っていました。三代将軍足利義満は山名一族の力を恐れ挑発して反乱を起こさせます。氏清、満幸らはまんまと義満の策謀に乗り挙兵、京都内野合戦で幕府軍に敗北し総大将山名氏清は戦死しました。
 
 満幸は逃亡に成功し本拠山陰に逃れていたのです。幕府からお尋ね者として追われていた満幸が伯耆・出雲で蜂起しても大きな勢力になれず現地の武士たちに鎮圧されたというのはある意味当然でした。満幸は出雲で敗れた後剃髪して僧になり筑前に逃亡、流浪して京都に戻ったところを捕縛され処刑されます。
 
 京極高詮の死後出雲・隠岐・飛騨守護を継いだのは嫡男高光でした。当時の出雲は杵築大社(出雲大社)ら寺社勢力が強く既得権益を持っていた為統治は困難を極めます。そんな中1411年(応永十八年)京極氏の分国飛騨で国司姉小路尹綱が大規模な反乱を起こし、守護高光に鎮圧の幕命が下りました。これには多くの出雲武士たちも参加しますが、鎮圧後恩賞がなかったことに怒り勝手に帰国する者も出てきます。
 
 高光は1413年39歳で没しました。嫡男吉童子丸(後の持高)はわずか3歳(異説あり)だったため叔父高数(高光の弟)が後見することとなります。持高も1439年29歳の若さで死去、嫡子がいなかったので弟持清が家督を継ぐはずでした。ところが六代将軍義教はお気に入りの高数に強引に京極家督を継がせるのです。1441年将軍義教が播磨守護赤松満祐に暗殺されるという嘉吉の乱が起こりました。京極高数も将軍側近として赤松邸に招かれていたため、殺されてしまいます。こうしてようやく持清は京極家督と出雲・隠岐・飛騨の守護職を得ることができました。
 
 このように京極氏が京都での政争に明け暮れる中、出雲守護代になった尼子持久(1381年~1437年)は着々と実力を蓄えていました。尼子氏の本拠として名高い月山富田城を築いたのも持久だと言われます。実は持久の事績ははっきりしていません。ただ守護京極氏が京都で政争したり幕府の命で兵を出すとき、出雲国内でこれを纏めるのは守護代持久の役割でした。加えて出雲から上がる年貢を京極家に送るのも持久でした。尼子氏は出雲守護代として武士たちを統御し庶民には年貢徴収という形で支配力を強めていったのです。もちろん国内の裁判権守護代が担いました。
 
 持久は、静かに出雲の支配力を強めながら1427年死去します。享年56歳。後を継いだのは清定(1410年~1488年)でした。清定の時代京都では応仁の乱(1467年~1477年)が勃発します。近江の佐々木一族でも宗家の六角高頼が西軍、京極持清が東軍となりました。というのは西軍の総大将山名宗全と出雲守護京極持清とは利害が衝突していたからです。出雲からも三刀屋助五郎ら多くの国人が動員されます。そんな最中、京極持清は1470年死去しました。享年64歳。この頃京極氏は近江の支配権をめぐって宗家六角氏と血みどろの戦いを続けていました。嫡子勝秀は父に先立って亡くなっていたので京極家督は勝秀の子、すなわち持清の孫にあたる孫童子丸が継ぎます。ところがその孫童子丸も家督継承後一年で死去、京極家は家督を巡り持清の三男政経と勝秀の庶長子高清が泥沼の内紛を始めました。
 
 出雲でも危機が訪れます。西軍の総大将山名宗全は、東軍の有力武将京極氏の力を削ぐため出雲国人に調略の手を伸ばしたのです。これに真っ先に応じたのが安来庄(安来市)地頭十神山城主松田備前守(公順?)でした。1468年山名方の後押しを受けた松田勢は隣接する富田庄の月山富田城に攻め寄せます。守護代尼子清定は、一時危機に陥りますが激戦の末これを撃退しました。
 
 もともと守護京極氏、守護代尼子氏に反感を持っていた出雲の国人たちはこれを機に一斉に蜂起します。出雲西南部に勢力を持つ有力豪族三沢氏などはその急先鋒で、尼子清定は各地を転戦し反乱鎮圧に奔走しました。京極氏の支援を当てにできない清定は独力で各地の反乱を鎮め1473年ころにはほぼ出雲を統一します。翌1474年清定は嫡男又四郎(経久)を上洛させ主君京極政経から所領を確認してもらいました。当時又四郎17歳。
 
 出雲をほぼ統一したとはいえ、清定の統治は安定しませんでした。主君京極氏の要請で隣国伯耆に出兵したり、足元で起こった能義郡一揆を討伐するなど東奔西走しました。その過程で清定は美保関の代官職を獲得します。美保関は出雲半島の東端にあり中国地方のたたら製鉄で作られた鉄の一大輸出港でした。日本ばかりでなく朝鮮や明の交易船も寄港する日本海有数の貿易港を得たことが尼子氏台頭のきっかけです。以後尼子氏は美保関からあがる莫大な公用銭(船役運上金など港から上がる税収)を手中に収め大きな力を手に入れます。
 
 守護京極氏としては守護代尼子氏を通して公用銭の確実な入手をすべく清定を代官にしたのですが、いつまでも尼子氏がこれに従うかは不明でした。当初は真面目に公用銭を送っていた清定ですが、次第に言を左右にして送金を怠るようになりました。守護京極政経は書状を送って何度も清定に催促したという記録があります。長い交渉の末、公用銭を五万疋から四万疋に減額することで妥協が成立、応仁の乱で勢力を弱めていた京極氏は泣き寝入りせざるを得なくなりました。
 
 少なくとも出雲においては実力的に守護京極氏よりも守護代尼子清定が上という状況になります。清定は出雲支配をほぼ成し遂げた後、1488年死去します。後を継いだのは嫡男又四郎。彼こそ十一州の太守と謳われた尼子経久です。ただその前に経久には逆境が待っていました。
 
 
 
 次回、経久の月山富田城追放を記します。