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北近江浅井三代記Ⅲ  久政の時代

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 浅井亮政が浅井氏嫡流ではなく、嫡流直政の一人娘蔵屋の婿養子となって宗家を継いだ事は前回書きました。しかし蔵屋との間には鶴千代という娘しかできませんでした。亮政は、この鶴千代に同じ浅井庶家の田屋氏から婿明政を迎え後を継がせるつもりでした。おそらくこれは亮政が宗家を継いだ時の約束だったのでしょう。男子が生まれたらそのまま家督を継ぎ、女子でも一族から婿養子を迎える事で継承するというものだったと思います。

 一方、亮政には側室尼子氏(京極一族、出雲の尼子氏はその庶流)との間に庶長子久政(1526年~1573年)がいました。本来久政は浅井家を継承する資格がありませんでした。『浅井氏三代』(宮島敬一著)によると、本願寺が亮政の香典を明政宛てに贈っている事でもはっきり分かります。

 ではなぜ久政が浅井氏の家督を継げたかというと、隣国南近江の守護六角定頼と結んだからです。父亮政時代に激しく対立した六角氏を頼るなど現代の感覚からいうとちょっと信じられませんが、時は戦国時代、久政としても背に腹は代えられなかったのでしょう。逆の見方をすると、六角氏が北近江を支配するために久政を担ぎ出したという可能性もあります。当然明政は反発しました。久政の家督相続に異を唱え反乱をおこしますが、六角氏の力を背景にした久政に簡単に鎮圧されます。

 ただ久政としても浅井一族全員に家督と認められていた明政を殺すことはできず、田屋姓に戻って身を引く事で許されました。この段階で浅井氏正統の蔵屋、鶴千代の母娘ラインは力を失います。浅井家の内紛は後々まで尾を引きました。浅井氏の力は、父亮政の時代からは大きく後退します。こうなると久政はますます六角氏に接近しました。結局久政は、六角氏の被官となります。

 浅井氏は傀儡とはいえ守護京極氏を推戴していたはずですが、こうなると京極氏の立場はありません。六角氏は悲願とも言える近江一円支配を達成したとも言えます。北近江前守護京極高清は、亮政の晩年浅井氏の本拠小谷城を出て本来の守護所上平寺館に移り天文七年(1538年)没していました。

 高清の長男で現守護高広は何度か浅井氏に対し挙兵するも失敗、三好長慶を頼り宿敵六角定頼、義賢父子と戦いますが勝つことはできず、天文二十二年(1553年)六角氏との合戦で敗北した後消息不明になります。高清が家督を継がせたかった次男高吉に至ってはさらに波乱万丈で、まず兄高広を追い落とすために六角定頼を頼り先陣となって攻め込むほどでした。しかし浅井氏が六角氏に臣従すると雲行きが怪しくなり、京都に向かって13代将軍足利義輝の近臣として仕えます。義輝暗殺後は義昭擁立に尽力、義昭が織田信長と対立すると進退極まり近江で隠居しました。しかし生き残り策だけは上手で、息子小法師を信長の人質として差し出します。この小法師こそ後の近江大津藩主、初代若狭小浜藩主の京極高次でした。

 よく、浅井久政六角義賢の圧力で嫡子に「賢」の字を偏諱として受けさせ賢政と名乗らせたり、その賢政に六角氏の家臣平井定武の娘を正室に迎えさせるなど屈辱を受けたと言われますが、浅井氏はこの時六角氏の被官になっていたので当たり前でした。浅井久政の事を戦下手の弱腰と後世非難されますが、彼の立場としては当然でしょう。家督相続の経緯から一族の間でも地位が安定せず、領内は旧京極派との対立、外からは六角氏の圧力で私はむしろ良く家を保ったと思います。

 六角義賢(1521年~1598年)は出家後の承禎(しょうてい、じょうてい)の名で有名ですが、彼の時代は六角氏が全盛期と滅亡を経験した時代でした。家督を継ぐと管領細川晴元を助けて三好長慶と抗争、自領に侵入した浅井久政を降して臣従させます。これで北近江まで勢力を広げました。その後はこれから書いていきますが、簡単に記すと浅井賢政の離反で北近江失陥、信長の上洛戦で本拠観音寺城を落とされて流亡。反信長勢力の一員として南近江でゲリラ戦を行いますが、鯰江城を柴田勝家の軍勢に攻め落とされ行方不明になります。最後は豊臣秀吉のお伽衆となり慶長三年(1598年)死去しました。

 浅井久政の六角氏に対する一見弱腰に見える態度は、家督相続の時から不満を抱いていた浅井一族、家臣団に不信感を増幅させます。久政の嫡男賢政が英邁で武勇も優れていた事から家中の期待は賢政に集まりました。そしてついに永禄三年(1560年)、賢政を擁立した家臣団によって隠居を余儀なくされるのです。

 この賢政こそ浅井氏最後の当主浅井長政(1545年~1573年)でした。次回、長政の登場を描きます。