実はこの前ウイグル帝国の首都オルド・バリク(カラ・バルガスン遺跡)を調べていた時、モンゴル帝国の首都カラコルムもこの近くだなと思いだし調べてみました。すると驚くべき事に、同じオルホン河畔でオルド・バリクから上流(南)に20kmくらい遡ったごく近い場所にありました。オルド・バリクがアルハンガイ県で、カラコルムは隣のウブルハンガイ県にあります。
どういう事か考えてみたんですが、オルホン川自体に秘密があるのではないかと気付きました。オルホン川は、エニセイ=アンガラ水系に属しセレンガ川などと合流し北流してバイカル湖にそそぎます。現在のモンゴル国の首都ウランバートルも同じ水系に属し、いわばモンゴル高原の大動脈にも等しい川でした。
この地域は、モンゴル高原の物資が集まるのに都合が良かったのでしょう。実際、カラコルムはチンギス汗がホラズム遠征に出発する時その兵站基地となったのが発祥だそうです。おそらくチンギス汗時代は、チンギス汗の大テントを中心に、大小無数のテント群が囲む行国(遊牧国家)の首都の形式である王庭だったと思います。
実際カラコルムの地は、南と西を山岳に接し、町のすぐ西にオルホン川があります。開けた北と東はバイカル湖に至る北に緩やかに傾斜する平原で、敵の接近がすぐ分かります。要害の地に設けられた王庭の条件にぴったり合うのです。現在もカラコルム遺跡を中心とする地域はオルホン渓谷として世界遺産に登録されているほどの景勝の地でした。
カラコルムに本格的に都城・宮殿ができたのは第2代オゴタイ汗時代の1235年だそうです。モンゴルの侵略の過程で連れてこられた華北や中央アジア、イランの技術者・職人たちが建設したかと思うと感慨深いものがありますね。おそらく彼らは異郷の地で生涯を終えたのでしょう。
グーグルマップで見ると、カラコルム都城遺跡は意外と小さいものでした。一辺が500m位の正方形。この中には大汗の宮殿だけがあり、住民はその郊外に住んだんでしょう。現在の街もそういう構造になっています。世界各地から連行されてきた農耕民の住宅とモンゴル遊牧民のテントが混在していたんでしょうね。何とも不思議な光景だったと思います。建造物も東洋系と中東系が並び立っていたでしょうから。
カラコルムはフビライ汗が支那を征服し大都(現在の北京)を首都と定めた後もモンゴル高原の重要都市として存在し、元が滅亡し北元が建った後はふたたび首都となったそうです。そして16世紀には荒廃します。おそらく遊牧民族同士の争いが激化し、都市機能を維持する職人たちも死に絶えたために消滅したのでしょう。モンゴル人やその近縁の遊牧民族には都市を維持することはできませんからね。また、その意味もない。再びテント形式の王庭に戻ったのでしょう。