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モンゴル台頭前の東アジア(外伝)  完顔陳和尚

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 完顔陳和尚(かんわんちんわしょう)、この名前を聞いてピンとくる人はほとんどいないと思います。世界史的には超マイナーな人なんですが、私好みの玄人受けする名将です。
 
 完顔陳和尚(1192年~1232年)は女真族が建てた金王朝末期の将軍でした。陳和尚というと変な名前に聞こえますが、これ実は幼名で本名は彝(い)。字は良佐。なぜか幼名が一番有名です。
 
 その姓から分かる通り金の帝室の一族ですが嫡流とはかなり離れていたようです。豊州出身とありますが、実は支那で豊州と呼ばれるところは複数あり私の考える彼の出身地第一候補は吉林省の豊州、第二候補は内モンゴル自治区の豊州です。吉林省はもともと女真族の出身地ですので一番可能性が高いですが、金の領土は内モンゴルにも拡大しておりこちらの可能性も捨てきれません。
 
 
 陳和尚の父完顔乞哥も金の将軍で1206年南宋との戦いで戦死しています。1215年そのころ中都燕京(現在の北京)に住んでいた陳和尚はモンゴルの侵攻をうけ家族ともども捕えられてしまいました。モンゴルの将軍は陳和尚が聡明な事に驚き側近に取り立てます。
 
 ところが陳和尚は敵であるモンゴルに仕える事を潔しとせず従兄の斜烈と語らって豊州の母を連れ脱出しました。この時モンゴルの監察官を斬り黄河を渡って開封に遷都していた金朝の宣宗に謁見します。
 
 宣宗は、これを喜び斜烈を将軍に取り立てました。陳和尚も従兄に従って軍職に就きます。1225年、斜烈が軍中で病気になると陳和尚は彼に代わって軍中の裁判を行いました。ところが斜烈の部下は仲間が罪を受けて処刑された事を逆恨みし陳和尚が越権行為を行ったと訴えました。
 
 陳和尚は投獄されます。ところが1226年斜烈が病死してしまい、これを惜しんだ哀宗は陳和尚を釈放し軍籍に復帰させました。冤罪が晴れ哀宗は無実の罪で投獄した事を謝ります。
 
  1228年、モンゴル軍は本格的に侵攻を開始します。陳和尚は自ら先鋒を買ってでわずか400騎の寡兵で8000ものモンゴル軍先鋒を撃破しました。これはモンゴルの侵略が始まって以来の快挙で、陳和尚は一躍英雄に祭り上げられます。定遠大将軍、平涼府判官に任じられた陳和尚は以後金軍の中で一際輝きました。
 
 陳和尚は河南・陝西地方を転戦しモンゴル軍を各地で破ります。彼の軍隊はウイグル人、ナイマン族、羌、漢人などモンゴルに追われた亡命者で形成され、モンゴルに対する復讐心が強いため士気高く精強な軍隊でした。逆を言えば、かつて精強を誇った女真族の軍隊は使い物にならなくなっていたとも言えます。
 
 忠孝軍と名付けられた陳和尚の軍隊は、モンゴル軍の間にも天敵として恐れられるようになっていきました。
 
 
 ところで陳和尚は武勇だけの人物ではありません。文人王渥と交友があり孝経、春秋左氏伝、論語、小学などを愛読し軍中でも暇ができると詩文を書いたそうです。
 
 1231年、陳和尚は倒回谷の戦いで大勝利を収め禦侮中郎将に任じられます(加官?)。しかし一個人の力で歴史の大きな流れを変えるのは不可能でした。陳和尚の居ない戦場では金軍はモンゴル軍に敗北を続け次第に追い詰められていきました。
 
 
 1232年1月、開封西南の三峰山(河南省兎県付近)で金とモンゴルの最後の決戦が行われます。金軍は騎兵2万、歩兵13万という大軍を集めました。対するモンゴル軍はチンギス汗の4男トゥルイ(実戦の指揮官はスブタイ)率いる4万の騎兵。陳和尚もこの戦いに参加します。
 
 ところがモンゴル軍の強さは圧倒的で、金軍はこの戦いで大敗、事実上王朝の命運は尽きました。王朝はその後2年生きながらえますが、滅亡は時間の問題でした。
 
 陳和尚はモンゴル軍に捕えられます。陳和尚の将器を惜しんだトゥルイはモンゴルに仕えるよう説得します。しかし陳和尚はこれを拒否。腕を折られ脚を斬られても節義を曲げず最後は口を耳まで裂かれて殺されたそうです。
 
 これにはモンゴルの将兵も衝撃を受け名将の死を惜しみます。享年41歳。金朝は鎮南郡節度使を追贈し石像を建てて陳和尚の忠義を称えました。