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オランダ独立戦争Ⅱ  スペインの圧政と乞食党の誕生

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                        オラニエ=ナッサウ公 ウィレム1世
 
 
 太陽の没せぬ帝国スペイン・ハプスブルク朝の主、フェリペ2世。1555年父神聖ローマ皇帝カール5世はブリュッセルで退位の式典をあげ、嫡子フェリペにネーデルラントの統治を委ねます。その翌年スペイン王位とそれに付属するポルトガルナポリ、ミラノ、シチリアと新大陸を含も広大な海外植民地を継承しました。
 
 フェリペ2世は即位後もしばらくはネーデルラントに留まります。というのも父以来の宿敵フランスとの戦争が続いていたからです。戦争の主戦場はネーデルラント南部(現在のベルギー)で、王が離れるわけにはいきませんでした。
 
 1559年、ようやくフランスとの間にカトー=カンブレジの和約が成立します。安心したフェリペ2世は異母姉パルマ公妃マルガレータをネーデルラント執政に任命し自身はネーデルラントを離れました。以後二度とこの地を踏む事はありませんでした。フェリペ2世は、異母姉のために三人の側近を残しその補佐に当たらせます。
 
 すなわちアラス司教グランヴェル、枢密・国務両会議議長ヴィグリウス、財務会議議長べルレーモンらです。彼ら三人がコンスルタ(側近会議)を形成し実質的にネーデルラントを支配しました。
 
 
 その頃ネーデルラントの地はカルバン派のプロテスタントが拡大していました。カトリック世界全体の期待を受けオスマントルコとの戦争の主役に躍り出たフェリペ2世にとって、自分のお膝元ネーデルラントで新教徒が拡大する事は我慢のならない事でした。国王は、コンスルタにカルバン派弾圧を命じます。しかし宗教というものは迫害すればするほど拡大していくものです。ネーデルラントのカルバン派が始末に負えないのは、本来国王の側にあって統治を補佐すべき貴族たちにまでそれが普及していったことでした。
 
 ネーデルラントの貴族たちは、国王のカトリック強制を拒否し公然とグランヴェルらコンスルタの解任を要求するまでになります。一度はフェリペ2世も折れてグランヴェルを召喚しますが、迫害は逆にますます激しくなっていきました。
 
 迫害に一番危機感を持っていたネーデルラントの中級・下級貴族たちは1565年宗派に関係なく団結し盟約を結成。改革を求めて請願書をネーデルラント執政に提出します。執政マルガレータは恐怖におののきますが、側近の財務会議議長べルレーモンは「この乞食(ゴイセン)どもが!」と罵ったと伝えられます。以来、彼らは乞食党(ゴイセン)と呼ばれました。最初は侮蔑の意味を持った名前でしたが、次第に乞食党は反政府派の栄光ある呼び名となっていきます。
 
 執政府の側近たちは強気でしたが、やはりマルガレータは女性でした。請願書を国王に取り次ぐという約束をしてしまいます。カルバン派はこの約束が宗教迫害の停止を意味すると解釈し亡命者たちも続々と帰国しました。さらにカルバン派の民衆たちはカトリック教会の偶像を破壊し僧侶を追い出します。爆発的に増えたカルバン派信者の暴動に驚いた執政は、さらに貴族同盟の指導者たちと協定を結び新教徒の礼拝を一部認めるなど譲歩を繰り返します。1566年はカルバン派にとって奇跡の年ともいうべき成功に終わるかに見えました。
 
 ある程度の信教の自由が認められると貴族たちはむしろ執政と和解を望み始めます。持てる者である貴族は最終的には安定を求めるのです。やがて貴族同盟は解散します。ところがそれこそ執政府ひいてはスペイン本国の望むところだったのです。有力貴族たちが抜けたカルバン派は次第に孤立し始めます。ただ乞食党の名前自体はカルバン派の抵抗の象徴として残りました。
 
 1567年、スペイン側は反撃に転じアントウェルペンでカルバン派の軍隊を撃破、壊滅させます。指導者ギ・ド・ブレは処刑され多数のカルバン派貴族・民衆たちが亡命を余儀なくされました。上級貴族のうち唯一スペインのカルバン派弾圧政策に批判的だったオラニエ=ナッサウ公ウィレムも、故郷のドイツ、ディレンブルクに亡命を余儀なくされます。
 
 1567年8月フェリペ2世は、錯綜するネーデルラント情勢を鎮めるためアルバ公フェルナンド・アルバレス・デ・トレドに1万の精鋭を授けネーデルラントに上陸させました。ネーデルラント総督として全権を委任されたアルバ公は、国王の意向を受け一切の反逆行為に鉄槌を下すべく徹底的にカルバン派を弾圧します。執政マルガレータはあまりの圧政に立場を失い辞職するほどでした。
 
 有力貴族エグモント、ホールネらはブルゴーニュ公国以来の伝統金羊毛騎士団の特権を無視し逮捕されます。アルバ公は、騒乱裁判会議(通称 血の法廷)を創設し亡命者の財産を没収、反逆の容疑で数百人を死刑に処するなど犠牲者は1572年までに6000人から8000人に及んだと言われます。エグモント、ホールネも1568年6月に処刑されました。
 
 アルバ公の恐怖政治で、ネーデルラントの経済・産業の中心地フランドル、ブラバンド両州からの亡命者は一万人を超えたと言われます。彼らはイギリスやフランスなどヨーロッパ各地に流れ、これらの国が17世紀に経済発展するきっかけとなります。また亡命しないまでも、南部より迫害の緩い北部のホラントやフリースラント地方に逃れたカルバン派の商工業者も多く、オランダ発展の基礎となっていきます。
 
 カルバン派(乞食党)の貴族、民衆たちの希望の星はドイツに亡命していたオラニエ=ナッサウ公ウィレムでした。ウィレムもまた亡命先で軍隊を組織しネーデルラント解放の計画を練っていました。戦いは1568年8月オラニエ軍のフロニンゲン州侵入で開始されます。すなわち80年にも及ぶオランダ独立戦争の始まりです。
 
 
 次回は、オラニエ公ウィレムとアルバ公との激闘、独立戦争の局面を変えたガンの和平を描きます。