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清教徒革命Ⅶ  名誉革命(終章)

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※       オラニエ・ナッサウ公、オランダ総督ウィレム3世、英王としてはウィリアム3世


 王政復古の立役者、ジョージ・マンクとは一体どのような人物だったでしょうか?彼はイングランド貴族出身ですが軍功をあげながらもチャールズ1世に疎まれ議会派に奔っていました。もともと軍事的な才能があった事から共和国内でも頭角を現し第1次英蘭戦争では艦隊司令官として数々の海戦に勝利します。彼は共和国のスコットランド総督に任命されました。ところが、軍事的英雄で貴族出身、政治的才能もあったことから独裁者クロムウェルから警戒されます。クロムウェルが長命だったらいずれ粛清されていたかもしれません。

 クロムウェルが亡くなり、息子リチャードとクロムウェルの旧部下たちが醜い権力争いをしているのを見たマンクは完全に共和国を見限ります。スコットランド総督の地位を最大限に利用し大陸の国王派と連絡を取り自らは1660年軍を率いてイングランドに入ります。

 クロムウェル亡き後、彼の軍事能力に対抗できる者はいませんでした。戦争の英雄として国民的人気も高かったためその頃ロンドンで権力を掌握していたランバートは急速に支持を失って失脚、逮捕されロンドン塔に幽閉されました。クロムウェルの息子リチャードは殺される事を恐れフランスに逃亡します。

 共和国という名のクロムウェル独裁政権に不満を持っていたイングランド国民は、マンクを大歓迎しました。その国民的人気を背景に長期議会を招集、クロムウェルから排除されていた長老派や国王派も議員に加えます。王政復古は当時のイングランド一般国民の願いだったと思います。共和制の厳しい現実を思い知らされていたからです。

 マンクはすっかりお膳立てをし1660年5月、大陸に亡命していた王太子チャールズをロンドンに迎え入れました。チャールズは5月29日即位しチャールズ2世(在位1660年~1685年)となります。すでに1651年にはスコットランド王に推戴されていたため晴れてイングランドスコットランドの同君連合が復活しました。

 この時の論功行賞でマンクはアルべマール公爵ほか複数の爵位、国軍最高司令官、侍従長アイルランド総督など多くの官職を与えられました。晩年は再び第2次英蘭戦争で活躍、1671年61歳で死去、最後まで名誉とともに過ごします。


 王政復古はこうして成されたわけですがイギリス国民は手放しで喜んでいるわけではありません。ただ共和制時代があまりにも酷く人権弾圧も繰り返されたためよりましな政体として王制を選んだにすぎなかったのです。革命関係者のうち王殺しの罪で13名が処刑され反逆者クロムウェルの遺体を掘り出しあらためて絞首刑にした後、その首を晒したところまでは積年の恨みもあるだろうし容認されましたが、国王が国王派中心の議会運営で王朝を守ろうという姿勢を示したことには批判が生まれました。

 議会もまた共和国という洗礼を受けており、いくら議会の多数派が貴族中心の国王派といえど必ずしも従順ではなかったのです。国王は国王派である騎士党を重用し清教徒を弾圧します。宗教的にも伝統の国教会支配を強化し清教徒を追放しました。従わない清教徒西インド諸島に流刑し強制労働をさせます。この流れを見ていたジェントリー層の多くは急いで国教徒に改宗しました。しかし宗派を捨てない者も多く、アメリカ大陸に亡命した者も出てきます。

 チャールズ2世の政策は、再び国王と議会の対立を生じさせました。ただ議会派も再び革命を起こすほどのエネルギーはすでに無くなっており、不穏な空気だけが流れます。イギリス議会は、国王の国教会を中心とする支配体制を是とする保守派トーリー党と、これに反発する地方代表や一部貴族、都市の有力者からなるホイッグ党とに分裂します。ただしホイッグ党もかつての独立派のような革新勢力というわけではなく、あくまで保守勢力の中の改革派という位置づけでした。これがのちの二大政党制の源流です。

 トーリー党は保守党になり現在に至ります。ホイッグ党は後に自由党となりますが20世紀初頭労働党が誕生すると勢力を失い労働党が二大政党の一方の雄となりました。ちなみに自由党自由民主党と改名し地方議会などでは細々と命脈を保っているそうです。


 チャールズ2世は、自分に逆らうホイッグ党を徹底的に弾圧、公職からも締め出しました。1685年イギリス国王チャールズ2世は54歳の波乱の生涯を閉じます。後を継いだのは弟ジェームズ。即位してジェームズ2世(在位1685年~1688年)と名乗りました。ところが新国王ジェームズは熱心なカトリック信者で、イギリス国民の大半を占める国教徒からそっぽを向かれます。カトリック信仰を重視するジェームズの政策は、兄チャールズ2世が推進した国教会支配からも逆行しイギリス支配層は完全に新国王を見放しました。

 1688年カトリック教徒だった王の正室メアリー・オブ・モデナとの間に王子(のちのジェームズ3世)が生まれると、イギリスにカトリック王朝が続くことを恐れた議会は国王を廃する決議を下しました。この時は国王派のトーリー党でさえ賛成に回ったそうです。ただ、清教徒革命のような流血は避けなければなりません。皆懲りていたのです。

 結局、ジェームズ2世の娘メアリーが嫁いでいたオランダ総督ウィレム3世に白羽の矢が立ちます。ウィレム自身母親がジェームズ1世の娘(メアリー・ヘンリエッタ・スチュアート)で母系でもスチュアート王家の血をひいていたので好都合でした。二人は従兄弟同士の結婚です。

 その頃宿敵フランスのルイ14世と戦争していたウィレム3世にとっても渡りに船の申し出でした。イギリスを味方にできるからです。こうしてオランダ総督ウィレム3世は、イギリスに迎えられウィリアム3世(在位1689年~1702年)として即位しました。共同統治者として妻メアリー2世も同時に即位します。

 ジェームズ2世は孤立しますが、援軍を出そうというルイ14世の申し出を断る良識は持ち合わせていました。戦うために軍を編成しますが大半の貴族はウィリアム3世陣営に寝返ります。ウィリアム3世も義父と戦うのはためらわれジェームズ2世がフランスに亡命するのを黙認しました。こうして一滴の血も流れず革命が成就したのでこれを名誉革命と呼びます。後にジェームズ2世の息子ジェームズ3世が成長しイギリス王位を主張して運動しますが大勢を覆すには至りませんでした。ジェームズ2世は1701年亡命先のフランスで亡くなります。享年67歳。ちなみにジェームズ2世庶子ヘンリエッタを残しており、彼女はスペンサー伯爵家に嫁ぎます。その子孫がダイアナ元王太子妃で、長男ウィリアム王子はイギリス王位を継承することがほぼ確実なため巡りに巡ってスチュアート家の血が再びイギリス王室に入ることとなるのです。

 新国王ウィリアム3世は英語を解しない国王でした。議会においてもただ黙って国王の席に着くのみだったと伝えられます。ウィリアム3世メアリー2世は、議会から提出された権利宣言を承認、これによりイギリス立憲君主制が確立します。1707年スコットランド王国が正式にイングランド王国に合併しグレートブリテンおよびアイルランド(この頃は全土)連合王国が成立しました。

 ウィリアム3世メアリー2世夫婦には子が生まれなかったため、後を継いだのは妹のアンでした。アン女王も1714年子供を残さず死去しスチュアート朝はここに断絶します。後継者にはジェームズ1世の外孫ソフィアの血をひくドイツ人、ハノーバー選帝侯ゲオルグ・ルートビッヒが新国王に迎えられました。すなわちハノーバー朝の始まりです。ハノーバー朝は第1次大戦中敵であるドイツ系の王朝の評判が悪くなる事を恐れウィンザー朝と改名し現在に至ります。

 外国人が王に迎えられてもイギリスは微動だにしませんでした。なぜなら立憲君主制と議会制民主主義が確立していたからです。この後イギリスはナポレオン戦争を経て帝国主義の道を推し進め太陽の没せぬ帝国と称えられる絶頂期を迎えることとなります。