アラビアのロレンス、1962年のイギリス歴史映画。第1次大戦中のオスマントルコに対するアラブの反乱を主導したイギリス陸軍将校トーマス・エドワード・ロレンスを主人公にした映画です。おそらく日本人のアラブイメージ作りに大きく寄与した作品ですが、果たして実情はどうだったのか?
調べて行くと理想主義のロレンス、現実主義のファイサル王子、狡猾なイギリス中東軍司令官アレンビー将軍とイギリス政府、映画のような単純な構図ではない事が分かります。イギリスが狡猾なのは当然として、アラブ側はどうだったのか?ロレンス本人はどうだったのか?
私はロレンスが理想主義者であったとはとても思えないのです。それを紐解くために、まずは当時のアラビア半島の状況を見てみましょう。
今回の話の主な舞台はヒジャーズ地方とその周辺です。ヒジャーズとはメッカ、メディナを含むアラビア半島西部の紅海沿岸地帯。中央をヒジャーズ山脈、アスィール山脈が南北に連なりアラビア半島中央部のヌフード、ルブアルハリ砂漠の厳しい環境に比べれば、乾燥はしているものの小規模の農耕も行われ住みやすい土地でした。ハッピーアラビアと云われたイエメン地方とエジプトやオリエント地方との中継貿易で栄え、イスラム教という世界宗教発祥の地としても有名です。
ヒジャーズ地方は、イスラム帝国の後常に外国勢力に支配されてきました。最初はアイユーブ朝、次いでマムルーク朝。1517年オスマントルコのセリム1世がマムルーク朝を滅ぼすとヒジャーズ地方もオスマン朝の領有となります。オスマン朝のスルタンは同時にカリフと称し(スルタン=カリフ制度)、イスラム教の宗教指導者としても君臨しましたからメッカ・メディナという聖地のあるヒジャーズ地方は絶対に押さえておかなくてならない土地でした。
オスマン朝はこの地を治めるためハーシム家(のうちの4代カリフ・アリーの子孫であるハサニー家)出身のフサイン・イブン・アリー(1853年~1931年)をメッカの太守に任じます。第1次世界大戦が勃発すると、イギリス政府はこのフサインに目を付けアラビア半島で反オスマン帝国の反乱を起こさせようとしました。正統カリフ、アリーに繋がるアラブの名家を盟主に祭り上げ利用しようというのです。
1915年、イギリスのカイロ駐在高等弁務官マクマホンは書簡を遣わしフサインと協定を結びました。フサインがオスマン帝国に反乱を起こす時はイギリスがこれを援助するという内容です。これをフサイン=マクマホン協定と呼びます。
一方、イギリスはオスマン帝国支配下のパレスチナでユダヤ人の反乱を支持するバルフォア宣言を出します。これは1917年。ところがその前の1916年には英仏の間でオスマン帝国解体後の両者の勢力範囲を決めたサイクス=ピコ協定を秘かに結んでいました。イギリスの本音がどこにあるかは明らかですが、この狡猾な三枚舌外交はアラブ人、ユダヤ人を現在でも続く争いに突入させたのですから罪は重いと思います。
ところで表向き、アラブ人の反乱とその後の独立を認めたかに見えたフサイン=マクマホン協定を現実化するためにフサインの元に送り込まれた情報将校の一人がロレンス中尉でした。映画ではロレンスはサイクス=ピコ協定を最後まで知らなかったように描かれていますが、それは現実的にあり得ません。
まずイギリス軍がそういう内部事情に疎い人物を送り込む事も不自然だし、語学的才能コミュニケーション能力だけで軍の意向を実現できないような無能な人物を重要なフサインの元に送り込む事もないでしょう。もし無能な人物を送ったら相手との信頼関係(表向きだけで裏で画策していたら尚更)も壊れますからね。
そういう意味では、ロレンスは非常に優秀な工作員だったのでしょう。1916年フサインは4人の息子と共にアラブの反乱を起こしオスマン朝から独立を果たします。領土はイスラム教発祥の地ヒジャーズ。歴史上これをヒジャーズ王国と呼びます。
ロレンスは、フサインの三男ファイサル王子と共にアラブのゲリラ軍を組織しトルコ政府の敷設したヒジャーズ鉄道破壊などゲリラ戦でオスマン軍を翻弄します。1818年にはオスマン朝の中東支配の要シリアのダマスカス入城を果たしアラブの独立は成ったかに見えました。ロレンスもこの功績で中佐に昇進します。ところがあくまで主役はアレンビー将軍率いる英中東軍で、アラブ軍はその後方支援・遊撃部隊にすぎませんでした。
アレンビー率いる中東軍10万は数次に渡るガザの戦闘に勝利、エルサレムを攻略した後1918年9月にはメギドの戦いでオスマン軍主力を撃破、これに壊滅的打撃を与えます。ちなみにこの戦い、後にトルコ独立の父となるムスタファ・ケマル(アタチュルク)もトルコ軍司令官の一人として参戦していたそうです。
英軍がトルコ軍主力を拘束していて手薄だったためにダマスカス攻略ができたとも言えますが、役割を終えたロレンスはアラブ軍を離れます。大戦後も彼の冒険主義的側面は治らず名前を偽って空軍に入隊したり、それがばれると今度もまた偽名で陸軍戦車隊に入隊したりと奇行を繰り返し1935年バイク事故で亡くなりました。
フサインやファイサルはとうぜんサイクス=ピコ協定の存在は知っていました。そのため既成事実を作りイギリスを牽制しようとダマスカス攻略を急いだのです。フサインの解釈ではシリアも含めたアラブ全域(ただしイラク地方やイエメン、ペルシャ湾岸、オマーンなどは除く)がフサイン=マクマホン協定の範囲でアラブ王国として独立させるつもりでした。
しかし、フランスがシリアとレバノン、イギリスがパレスチナ、ヨルダン、イラクを取るという秘密協定から見たらフサインの存在は邪魔以外の何ものでもありませんでした。1920年ファイサルはダマスカスのアラブ民族会議によってシリア・アラブ王国の国王に選出されます。ところがフランスはこれを認めず軍隊を送ってファイサルのアラブ軍を粉砕、ファイサルはシリアを追放されました。
さすがにイギリスも三枚舌外交の気がとがめたのかフサインのヒジャーズ王国だけは存在を認め、自国の委任統治領になったトランスヨルダン(ヨルダン川東岸地域)にも彼の次男アブドゥーラ・ビン=フサインを傀儡国王とするヨルダン・ハシミテ王国を建設しました。1923年の事です。ハシミテとはハーシム家の国という意味。これが現在まで続くヨルダン王国です。一方、シリアを追放されたファイサルですが英委任統治領のイラクでシーア派の抵抗が強い事からそれを宥めるためアリーの子孫であるファイサルに白羽の矢が立ち、1921年イラク国王として返り咲きます。ヨルダンにしてもイラクにしてもイギリスの傀儡ではありましたが一応国王になれたのでハーシム家にとってはまずまずの結果に終わるかに見えました。