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大オスマン帝国Ⅹ  トルコ革命と帝国滅亡(終章)

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 19世紀末から20世紀初頭にかけてバルカン半島の西側からはオーストリアハンガリー二重帝国が、バルカン半島東側とコーカサス地方からはロシアがオスマン帝国の領土を窺います。国内はフランス革命の影響を受け支配下の諸民族にナショナリズムの嵐が吹き荒れていました。

 国内外の危機からオスマン朝内部でも改革の動きはありましたが、後手後手に回ります。オスマン朝では、軍事的な危機感が深刻で、当時オーストリアと対立していたドイツ帝国から軍事顧問団を招聘しドイツ式の軍制改革を始めました。ちょうど同じ時期、明治維新で近代国家の仲間入りを果たした日本もドイツからメッケル少佐を招聘し軍の近代化を果たします。ドイツは、オスマン帝国を重視しプロイセン王国時代から軍事顧問を派遣しており、一時は後の参謀総長モルトケですらオスマン帝国に赴任しています。

 ドイツ帝国は、宿敵イギリスの3C政策(カイロ-ケープタウンカルカッタを結ぶ経済ブロック)に対抗するため3B政策(ベルリン-ビザンチウムイスタンブールの古名)-バクダッドを結ぶ鉄道建設)を推進しており、オスマン朝への軍事顧問団派遣もその一環でした。

 1878年ベルリン会議でロシアとの対立は一応決着しますが、その後欧州列強はオスマン朝の領土の切り取りを激化させます。1881年チュニジアをフランスに割譲、1882年には一応宗主権だけは保っていたエジプトをイギリスに割譲しました。1897年にはトルコ・ギリシャ戦争勃発、1908年イエメン独立(実質的にはイギリスの保護領)、1908年にはブルガリアが独立します。

 ボロボロのトルコ帝国の現状を憂い、西洋式教育を受けたムスタファ・ケマル青年将校や下級官吏たちは青年トルコ党を結成しました。彼らはトルコが弱いのはアブデュルハミト2世(第34代スルタン、在位1864年~1909年)の専制政治が原因だと考えます。皮肉にもオスマン帝国は、イスラム法の下緩やかな専制で有為の青年たちを西洋に留学させていたのですが、それが仇になったとも言えました。

 1908年7月、彼らによって青年トルコ革命が起こります。革命勢力はアブデュルハミト2世によって停止されていた近代的ミトハト憲法復活を主張しました。1913年タラート・パシャ、エンヴェル・パシャを指導者とする統一派政権が誕生します。この混乱の中、スルタン・アブデュルハミト2世は廃位させられます。これをみても当時のオスマン帝国がスルタン専制ではなく官僚支配国家だった事が分かります。
 
 統一派政権はアブデュルハミト2世の弟メフメト5世(在位1909年~1918年)を擁立しました。国外では衰退するオスマン帝国領を狙ってブルガリアセルビアギリシャモンテネグロがバルカン同盟を結成し1912年第1次バルカン戦争を起こします。この戦争でオスマン帝国はボロボロになったのですが、領土を大きく拡大したブルガリに嫉妬した他のバルカン同盟諸国が今度はブルガリアに対し第2次バルカン戦争を起こしました。ブルガリアは袋叩きにあって領土を縮小させます。

 オスマン帝国は新政権になってもドイツとの同盟を維持、オーストリアハンガリー二重帝国も国内の事情とロシアとの対立からオスマン帝国との対立を止め、ここに三国同盟が結ばれます。1914年、オーストリア皇太子フランツ・フェルディナント大公がサラエボセルビア人青年に暗殺された事がきっかけで第1次世界大戦が勃発しました。

 オスマン帝国は、この戦争を機にイギリス、フランス、ロシアに奪われた領土を奪回できると淡い期待を抱いていたのでしょう。しかし現実は、アラビアのロレンスに代表されるイギリスの攻勢にさらされ、他の戦線でも敗退し続けました。1915年には、オスマン朝の本土イスタンブールに近いガリポリ半島に英仏連合軍14個師団が上陸します。英仏の大艦隊に守られ強烈な艦砲射撃の下上陸した英仏軍の前にオスマン軍は絶体絶命でした。このままでは首都イスタンブールが陥落するのも時間の問題。

 当時ガリポリ半島を守っていたのはオスマン軍6個師団でしたが、最終的には14個師団に増強されます。後の無いオスマン軍は必死に防戦し、戦線は膠着状態に陥りました。この戦いで活躍したのがムスタファ・ケマルでした。ケマルはアナファルタラル集団司令官でしたが、英軍の進撃を食い止めアナファルタラルの英雄と称えられます。

 そもそもガリポリ上陸作戦自体が無理な作戦でした。補給が続かなくなった英仏軍は1916年1月撤退します。大きな犠牲を払いながら得る物の無い戦いだったのです。ただ一つ、ムスタファ・ケマルを英雄にしただけ。1918年10月30日、オスマン帝国はついに降伏します。英仏連合軍がオスマン領土に進駐し首都イスランブール、ボスポラス・ダーダネス両海峡は国際管理下に置かれました。アナトリア半島エーゲ海沿岸地方はギリシャに取られ、オスマン帝国に残された領土はアナトリア半島中央部だけになります。

 アナトリアトルコ人たちは危機感を抱きます。このままではトルコが滅んでしまうと。統一派政権に属しながら距離を置いていたムスタファ・ケマルはこのようなトルコ人たちの不満を糾合しアンカラ1920年トルコ大国民議会を組織します。一方、連合軍に恭順していたメフメト6世(5世の弟、在位1918年~1922年)は、この動きを反逆と断じました。

 1920年オスマン帝国と英仏連合軍との間に講和条約セーブル条約が結ばれます。これによりトルコはほとんどの海外領土を失いました。アナトリア西部エーゲ海沿岸を獲得したギリシャは、欲を出しアナトリア中央部に軍を進めます。ケマルは軍を率いてギリシャ軍を迎え撃ちサカリア川の戦いで撃破しました。ケマル率いるアンカラ政府軍は、余勢を駆りアナトリア半島に展開するギリシャ軍を駆逐します。これによりアンカラ政府の実力を知った連合国は改めてトルコに有利な状況で休戦条約を結ばざるを得ませんでした。

 連合国はローザンヌ講和会議を開催する事にし、イスタンブールオスマン帝国政府と共にアンカラ政府を招待します。ムスタファ・ケマルは国の代表が二つあるのはおかしいと考え、1922年大国民議会に諮ってスルタン制の廃止を決議します。オスマン家に残されたのは宗教的権威のカリフのみで、世俗の権威、権力一切を剥奪されたのです。実際軍隊をもちトルコ国民から圧倒的支持を受けるアンカラ政府にオスマン朝が抵抗できるはずはありませんでした。

 1922年廃帝メフメト6世マルタ島に亡命します。600年の歴史を誇るオスマン帝国の滅亡でした。これをトルコ革命と呼びます。翌1923年ムスタファ・ケマルトルコ共和国樹立を宣言、総選挙を実施し初代大統領に就任しました。

 トルコの人たちは、彼の事をケマル・アタチュルク(トルコの父)と尊称します。ケマル・アタチュルク大統領によってトルコはイスラム支配ではなく西洋的近代国家に生まれ変わるのです。



                                (完)