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大オスマン帝国Ⅳ  征服者メフメト2世

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 話はアンゴラの戦い直後まで遡ります。スルタン・バヤジット1世が捕虜になりどう足掻いても挽回不可能だと悟ったイェニチェリ軍団は驚くべき行動に出ました。王子の一人と大宰相を擁して戦場を離脱したのです。これはスルタン個人ではなくオスマン朝そのものを守る行動でした。遊牧国家は汗やスルタンの死と共に崩壊するのが常ですが、オスマン朝だけは国家という近代的概念で動いたのです。これを見てもオスマン朝がこれまでの遊牧国家とは異質な存在だと分かるでしょう。むしろ西洋近代国家の概念を先取りしていたとも言えます。

 おそらくオスマン帝国の国民もオスマン家もトルコ人の国家だという意識は無かったかもしれません。イスラム教を奉じるトルコ系のオスマン家の支配のもとにイスラム教、キリスト教を超えた多民族国家という意識がおぼろげながら芽生えていたとしか思えないのです。

 イェニチェリ軍団は、他のオスマン軍兵士が西へ逃げたのに対し王子の任地があるアンゴラの北東200kmに位置するアマスヤに向かいます。王子と大宰相を囲むように進む軍団は、兵法でいう死兵でした。すでに勝利が確定したティムール軍は、追撃しても大やけどするだけで得る物が少ない敵兵を本気では追いませんでした。なぜイェニチェリ軍団は、敵中に孤立する危険のあるアナトリア北東部アマスヤに向かったのでしょうか?

 ギリシャの歴史家ストラボンによるとアマスヤの語源はアマゾン族の女王アマシスに由来するそうです。この地は黒海沿岸の山脈中に位置しながら複数の川が流れる沃野を山脈が囲む天然の要害でした。王子の名はメフメトといいました。

 ティムールは、アンゴラの勝利の後バヤジット1世に追放されていたトルコ系諸侯たちに旧領を与えると本拠サマルカンドに帰還します。生涯の宿願である明遠征の準備をするためです。アナトリアにおけるオスマン領は、ティムールによって大部分が失われますが、バルカンのオスマン領は手つかずでした。アナトリアでもオスマン本来の領土であるエーゲ海沿岸部は残されます。

 ティムールが去った後、メフメトを始め4人の兄弟たちがそれぞれスルタン位を主張し争いました。兄弟の争いは11年続き、この期間を空位時代と呼びます。勝ち残ったのは、一番不利な位置にいたメフメトでした。やはりイェニチェリ軍団の支持が大きかったのでしょう。スルタンに即位しメフメト1世(在位1413年~1421年)となります。

 メフメト1世の生涯は失地回復に費やされました。それは息子ムラト2世(在位1421年~1451年)の時代も変わらず、ムラト2世の晩年ようやくバヤジット1世時代の領土を取り戻します。第7代スルタンに即位したメフメト2世(在位1451年~1481年)の目標は、長年の懸案だったビザンツ帝国の征服でした。オスマン朝の伝統である兄弟たちを殺して即位したメフメト2世は、領土の中にぽつんと残るビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルに目を向けます。

 19歳の青年スルタン・メフメト2世は、背後を固めるためハンガリーと3年の休戦条約を結びアナトリアに残った最後の敵対勢力カラマン君侯国を討ちました。オスマン軍はこれまで二度に渡ってコンスタンティノープルを包囲しています。過去の失敗は攻囲戦が長期になりヴェネチアなど欧州からの援軍が到着したからでした。メフメト2世は、短期決戦を決意します。そのためにウルバンの巨砲を製造させました。メフメト2世の父ムラト2世の時代から、イェニチェリ軍団はボヘミアから伝わったマスケット銃と大砲で武装しています。役に立つと分かれば例え異教徒の技術であれ柔軟に取り入れる事ができるのがオスマン軍の強みでした。

 1453年4月5日、メフメト2世はコンスタンティノープルに着陣しました。オスマン軍総兵力12万。守るビザンツ軍はわずか1万2千。ビザンツ皇帝コンスタンティノス・パライオロゴスは今回ばかりは守りきれないと覚悟します。ヴェネチアジェノバに援軍を要請しますが到着したのはわずかばかりの援軍のみでした。側近から脱出を勧められた皇帝はこれを拒否します。帝国千年の歴史と運命を共にする覚悟でした。

 金角湾に山越えで艦隊が移されたのはこの時です。帝都包囲の輪は確実に狭まりました。5月28日夜、皇帝コンスタンティノスは宮廷で廷臣や兵士たちに向かって最後の演説をします。皇帝は涙ながらに訴えました。
「キリストのために死ぬのだ!」
 その間、オスマン軍からは何度も降伏勧告がなされます。しかし死を覚悟した皇帝が心を動かされる事はありませんでした。

 5月29日未明、オスマン軍の総攻撃が始まります。最後まで前線で指揮を取っていた皇帝は、帝国の国章をちぎり捨て帝権を象徴する豪華な衣装を脱ぐと親衛隊と共にオスマン軍に斬り込みました。皇帝の最期を見た者は誰もいません。1000年を歴史を誇るビザンツ帝国の終焉でした。

 メフメト2世は、生々しい戦いの傷跡が残る帝都に入城します。通常であれば抵抗した都市への見せしめとして三日間の略奪を許すはずでしたが、オスマン帝国の首都とする事を想定していたメフメト2世は略奪を禁じます。

 コンスタンティノープルは、イスタンブールと改称されオスマン帝国の首都となりました。ビザンツ帝国を滅ぼした事で、メフメト2世は征服者の称号を得ます。メフメト2世は、イスタンブールオスマン朝の帝都としてふさわしく作りかえると同時にバルカン半島への進出を続けます。

 オスマン帝国は、イスタンブールを得た事で世界帝国への道を歩み始めました。イスラム支配の下異教徒は弾圧されたというイメージがありますが、実際は違います。異教徒であるキリスト教徒出身者でも普通に出世できました。最も宮廷に入る段階でイスラム教に改宗する事を要求されましたが。

 メフメト2世時代の8人の大宰相(官僚のトップ)のうち6人がバルカン半島出身。そのうち3名はメフメト2世が滅ぼしたビザンツ貴族の出です。オスマン朝は支配の原理としてイスラム教を奉じただけで、すべての異教徒の改宗など非現実的だと理解していました。これがオスマン朝を世界帝国に押し上げた原因です。

 メフメト2世の関心はバルカン半島に注がれますが、背後の安全を確保するためアナトリア東部への遠征も行いました。それが1471年の白羊朝ウズン・ハサンとの対決です。白羊朝軍を撃破すると1473年にはカラマン君侯国を完全に滅ぼしました。1475年黒海北岸のクリミア汗国を服属させます。

 メフメト2世は、自身をアレクサンドロス大王になぞらえていたそうです。その生涯は戦いに明け暮れ1481年遠征中に陣没します。


 次回は、メフメト2世の孫セリム1世の征服業を描きます。サファヴィー朝マムルーク朝との戦いが舞台です。