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大オスマン帝国Ⅲ  雷光バヤジット1世とアンゴラの戦い

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 1389年コソボの戦いで勝利するも戦場に倒れた父ムラト1世に代わって即位したバヤジット1世(在位1389年~1402年)。ただ彼の即位はスルタン位継承の障害になる兄弟たちを殺すという血塗られたものでした。以後、即位時に兄弟を殺す事は先例になります。

 即位時の混乱はあったものの、オスマン朝の土台が揺らぐ事はありませんでした。ムラト1世の戦死で一時息を吹き返したセルビアですが、バヤジット1世は素早く反撃しセルビア軍を撃破します。バヤジットは報復としてセルビア公ラザル・フレベリャノヴィチら捕虜としたセルビア人貴族たちをことごとく処刑しました。

 1390年バヤジット1世はセルビア公ラザルの娘オリベーラ・デスピナを娶り義弟ステファン・ラザレビッチを臣従させます。以後セルビアオスマン帝国の忠実な属国となりました。ムラト1世の死は、アナトリアオスマン朝の勢力拡大に反感を持っていたカラマン侯国などトルコ系諸侯たちには絶好の機会だと映ります。バヤジットの義弟でもあったカラマン侯アラー・ウッディーンは周辺諸国を語らいアナトリア半島オスマン領に侵攻しました。

 ところがバヤジット1世の方が動きが素早く、1391年バルカン半島から軍を返すとカラマン連合軍を迎え撃ちます。この時、征服したアルバニアセルビアブルガリアなどの諸軍も加わっていたそうです。真っ向からぶつかると、バルカン半島で欧州の強豪と戦っていたオスマン軍の前にアナトリアの雑軍など相手にならず鎧袖一触、逆に攻め込まれてカラマンの首都コンヤがオスマン軍に包囲されます。アラー・ウッディーンは屈辱的な講和を結ばざるを得ませんでした。

 オスマン帝国の急速な拡大とバルカン進出は、ハンガリー王ジギスムントに危機感を抱かせます。ジギスムントは教皇庁や欧州各国へ十字軍結成を訴えました。これに呼応しローマ教皇ボニファチウス8世の提唱で反トルコ十字軍が結成され神聖ローマ帝国、フランス、イングランド、サヴォイなどが加わります。記録ではこの時の十字軍を兵力40万としていますが、さすがにこれは誇張でしょう。ただ10万を超える大軍であった事は確かだと思います。

 ハンガリーの首都ブダに終結した十字軍は、異教徒トルコ人を討つべくバルカン半島を南下しました。急報を受けたバヤジット1世も手勢を率いて出陣します。オスマン軍の兵力はこれも諸説ありますが、だいたい6万前後だったと言われます。

 1396年9月26日両軍はブルガリアのニコポリスで激突しました。大軍にもかかわらず十字軍内では諸侯の対立が深刻化し纏まりに欠けていました。諸侯はばらばらに突撃します。そこをオスマン軍に衝かれ各個撃破。十字軍の提唱者ハンガリー王ジギスムントさえ捕虜となるほどの大敗を喫します。ニコポリスの勝利でバルカン半島におけるオスマン朝の覇権は確立しました。以後しばらくの間欧州勢は守勢に立たされることになります。

 欧州諸国が天罰とまで呼んで恐れたオスマン帝国。欧州の有力国家ハンガリーはもとより神聖ローマ帝国すらも存亡の危機を迎えるはずでした。ところが奇跡が起きます。オスマン領のはるか東、中央アジアの奥深くから一人の巨人が出現したのです。彼の名はティムール。この一代の英傑の登場によってヨーロッパの命運は紙一重の差で滅亡を免れたとも言えます。

 カラマン侯国を始めアナトリア半島のトルコ系諸侯たちがスルタン交代時の隙を狙ってオスマン領に侵攻し逆に大敗したことはすでに述べました。当時ティムールは、チャガタイ汗国を滅ぼし、キプチャク汗国を降し、インド遠征、シリアに矛先を向けつつありました。バヤジット1世に敗れたトルコ系諸侯たちは、オスマン朝に対抗するためティムールに泣きつきます。とくに領地を捨てティムールの元に奔ったトルクメン族長たち(具体的には黒羊朝のカラ・ユースフら)の処遇を巡ってバヤジット1世とティムールは鋭く対立しました。引き渡しを求めるバヤジット、拒否するティムール。両者の対立は不可避となります。

 1402年、ティムールはバヤジット1世を討つべく20万の大軍でアナトリアに入りました。バヤジットはコンスタンティノープルを包囲中でしたが、急報を受けバルカン諸侯の援軍を加えた12万の軍勢で迎え撃つべく出陣します。兵力こそ劣るものの、数々の輝かしい戦功を誇るバヤジットは負ける気がしなかったでしょう。また歴戦のオスマン軍も精鋭でした。この頃常備歩兵軍団イェニチェリも創設されスルタンの親衛隊として付き従います。

 1402年7月20日、両軍はアナトリア高原中央アンゴラ(現アンカラ)でぶつかりました。両者は一歩も譲らず激しく戦います。特にスルタンの親衛隊イェニチェリの奮戦は目覚ましいものでした。ところが、突如オスマン軍の背後にいたトルコ系諸侯がティムール軍に寝返ります。あらかじめティムールが調略していたと言われますが、これが戦いの行方を決定付けました。皮肉にも最後まで戦ったのは臣従して日の浅いセルビア軍騎兵隊だったと云われます。

 両翼がティムール軍に撃破され崩壊、バヤジット1世はイェニチェリ軍団と共に敵中に取り残されました。逃げようとしたバヤジットは乗馬を射られ、一子とともに捕らわれます。オスマン軍初めての大敗北でした。捕虜となったバヤジット1世は、ティムールに手厚く遇されました。しかしバヤジット1世が逃亡を図ったため、以後格子付きの輿で連行されます。失意のバヤジット1世は翌年三月異郷の地サマルカンドで生涯を終えました。享年43歳。

 その後、ティムールは念願の明遠征の壮途に就きますが途中シルダリア河畔オトラルで猛吹雪に遭い波乱の生涯を閉じます。1405年2月の出来事でした。




 アンゴラの敗戦によって一時的に滅亡したオスマン帝国はどうやって復活を遂げたのでしょうか?次回は瓦礫の中から立ち上がったオスマン朝と征服者メフメト2世のコンスタンティノープル征服を描きます。