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大オスマン帝国Ⅵ  壮麗者スレイマン大帝(前編)

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 オスマン帝国第10代スルタン、スレイマン1世(在位1520年~1566年)。大帝と尊称されオスマン帝国最盛期を築いたスルタンです。

 スレイマンの父セリム1世が1520年ロードス島遠征準備中に亡くなった時、彼はイズミルにほど近いマニサの知事でした。急報を受けたスレイマンはわずかな側近と共にマニサを発ち首都イスタンブールに向かいます。9月20日群臣の臣従の誓いを受けて即位、この時スレイマン1世26歳でした。

 オスマン帝国では新しいスルタンが即位する時ライバルになる兄弟たちを粛清するのが常ですが、不思議とスレイマン1世の時はそういう話がありません。嫡子がスレイマン1世だけしかいなかったのか、スレイマン1世が兄弟たちの粛清を嫌ったのかは分かりません。

 彼の母ハフサ・ハトゥンは信心深い賢后として有名で大変な美人でした。彼女の血を受けたスレイマン1世は眉目秀麗な若者でオスマン朝歴代スルタンでも一二を争う美男だったと伝えられます。これが壮麗者と言われた所以でしょう。

 スレイマンが即位した直後シリア総督ジャンベルディ・ガザーリが反乱を起こします。ガザーリはもとマムルーク朝に仕えた軍人で、いち早くセリム1世に寝返った為重用されていた人物でした。やはり一度裏切った人間は信用出来ないのでしょう。ダマスカスで挙兵したガザーリは、同じくマムルーク朝寝返り組でエジプト総督だったハユル・ベイを誘います。ところがハユル・ベイはオスマン側に立ちガザーリと敵対しました。孤立したガザーリは、シリアの要衝アレッポを守っていたオスマン軍を攻撃しますが失敗、1521年オスマン朝の討伐軍に敗北し処刑されます。以後シリアは、オスマン朝の直轄領となり本土並みの支配がなされました。

 ガザーリの反乱を鎮圧すると、スレイマン1世は1521年、当時ハンガリー領だったベオグラードを占領します。これは彼がバルカン進出を目標とするという意思表示でした。1522年、父セリム1世時代からの懸案だったロードス島聖ヨハネ騎士団討伐に向かいます。騎士団は頑強に抵抗しますが長期間包囲戦の末降伏、島を明け渡してマルタ島に退去しました。以後聖ヨハネ騎士団マルタ島騎士団と呼ばれます。

 ロードス島エーゲ海アナトリア半島近くに位置しオスマン朝にとって目障りな存在でした。騎士団は海賊となりオスマン朝の船団を襲っていたため安心してバルカン方面へ長期遠征できなかったのです。その棘が取れたオスマン帝国は本格的にハンガリー領を窺います。ハンガリーは、オスマン帝国の侵略に立ちふさがるヨーロッパの防波堤でした。1526年、12万の大軍を率い親征したスレイマン1世はハンガリー南端ドナウ川流域にあるモハッチ平原に着陣。ハンガリー王ラヨシュ2世も直率のハンガリー軍3万にトランシルバニア侯ヤーノシュの軍3万、姻戚のハプスブルク家ボヘミアの援軍を加え8万前後の軍勢で迎え撃ちました。

 20歳と血気盛んなラヨシュ2世は、援軍の到着を待たずハンガリー軍単独で攻撃を開始します。ところがオスマン軍は300門の大砲と数千挺のマスケット銃で待ち構えハンガリー重騎兵の突撃を文字通り粉砕しました。この戦いでハンガリー王ラヨシュ2世戦死、ハンガリー軍は潰走しスレイマン1世はハンガリーの首都ブダに入城します。

 ハンガリー王国は事実上崩壊、神聖ローマ帝国オスマン朝は国境を接するようになりました。当時の神聖ローマ皇帝スペイン王を兼任するカール5世(スペイン王としてはカルロス1世)。スペインはもとより南イタリアシチリアサルディニアネーデルラント(現在のオランダ・ベルギー)を領し、神聖ローマ帝国のみならず南北アメリカに広大な植民地を持つ「太陽の没しない帝国」の皇帝でした。

 スレイマン1世とカール5世、共に日の出の勢いの世界帝国の主です。両者の激突はまず陸上から始まります。1529年スレイマン1世は12万の大軍を率い、神聖ローマ帝国の中核とも言うべきオーストリア大公国の首都ウィーンを包囲しました。これを第1次ウィーン包囲と呼びます。

 当時カール5世はスペインを本拠地としていたためウィーンにはおらず、守っていたのはカールの弟でオーストリア大公フェルディナント。オーストリア軍は歩兵2万、大砲70門、騎兵1千でした。このままではウィーン落城は時間の問題です。神聖ローマ皇帝カール5世の威信の上からも絶対に守らなければなりませんでした。ところが神聖ローマ帝国に属するドイツ諸侯たちは、オスマン軍を恐れ援軍を出すのを渋ります。

 スペインやドイツ各地からかき集めた援軍も5万前後にしかならず、神聖ローマ帝国軍はオスマン軍を遠巻きに包囲するしかありませんでした。しかし、ウィーン城内のオーストリア軍は後が無いために頑強に抵抗します。オスマン軍が攻めあぐねていると冬に入り補給が滞るようになりました。時間が経てば経つほど長大な補給線を維持しなくてはならないオスマン軍は不利になります。一方、形勢が有利になりそうだと分かると現金なものでドイツ諸侯は続々と援軍を送る姿勢を示し始めました。

 スレイマン1世は、これ以上対陣してもウィーンが落ちないと悟ります。撤退を決意したスレイマン1世は粛々と兵を引きました。ただ、ハプスブルク側もこれを追撃する余力は無く痛み分けに終わります。というのはハプスブルク側も弱点を抱えていたからです。かつてカールと神聖ローマ皇帝の座を争ったフランス王フランソワ1世は、スペイン、オーストリアハプスブルクに包囲されていることに危機感を覚えあろうことか異教徒であるオスマン帝国のスレイマン1世と同盟を結びます。

 キリスト教側から見ると背信行為そのものですが、フランスも生き残るための方便だと主張するでしょう。このため、フランス軍の動きを警戒しカール5世はスペイン軍主力を動かせませんでした。


 結局、ハプスブルク家ハンガリー王を兼任するようになりますがハンガリー王国に残ったのはオーストリア国境に近い一部のみ。ハンガリーの大半はオスマン朝の版図に組み入れられます。陸上での両者の戦いは一応の決着を見ました。しかし、まだ海上での戦いが残っています。

 後編ではプレヴェザの海戦とスレイマン大帝の晩年を記すこととしましょう。