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大オスマン帝国Ⅵ  壮麗者スレイマン大帝(後編)

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 『太陽の没しない国』スペイン・ハプスブルク帝国の主カール5世(在位1519年~1556年)。ヨーロッパ随一の経済中心地ネーデルラントを領有し、新大陸からもたらされる莫大な金銀によっておそらく当時世界一富裕だったと思われます。結果論ですが、スペインがこの金銀を国内産業の育成に投じていればスペインは現在も列強の一角として残っていたはずです。

 ところが、カール5世とその息子フェリペ2世オスマン帝国との戦争に浪費しました。イタリア半島ナポリ王、シチリア王を兼任するカール5世にとって、オスマン朝問題は地中海貿易に関わり他人事ではなかったという事もあったでしょう。しかも実弟フェルディナント1世が大公を務めるオーストリア大公国(ハンガリー王、ボヘミア王を兼任)が直接オスマン帝国と国境を接した事に対する危機感もありました。

 そして何よりも、ヴェネチアジェノバなど地中海貿易をオスマン帝国に脅かされていた諸国がカール5世に泣きついたのが大きかったと思います。カール5世はカトリック世界の盟主としてオスマン朝との戦争の矢面に立たされました。

 一方、スレイマン1世側はどうだったでしょうか?第1次ウィーン包囲は失敗しましたが、ハンガリーの大半を版図に組み入れほぼ満足できる結果でした。スレイマン1世がフランス王フランソワ1世と結んだように、カール5世はオスマン朝の背後にいるイランのサファヴィー朝タフマースブ1世(イスマイール1世の子)と結びます。この辺り、当時の外交戦のダイナミックさが出ていて興味深いですが、宗教の違いに関係なく列強が国益で動いていた証拠でしょう。

 背後の安全を気にしなければならなくなったスレイマン1世は東方遠征を決意します。1533年スレイマン1世に率いられた大軍はサファヴィー領に侵攻しました。先遣隊がまずアゼルバイジャンを占領、スレイマンの本隊は南下してバクダードを制圧します。その後アゼルバイジャンの重要都市タブリーズに至りますが、直接戦闘するのをサファヴィー軍が避けたためイラクアゼルバイジャンの大半を占領したことで満足し兵を引きました。

 ところが、サファヴィー軍はオスマン軍が撤退すると出撃し騎兵の機動力を生かしたゲリラ戦、焦土作戦で対抗します。これは強大なオスマン軍に対抗するには有効な策でした。両国の戦争は泥沼状態に陥り数十年続きます。とはいえ、オスマン朝サファヴィー朝の国力は隔絶していましたからオスマン本国が脅かされる事はありませんでした。

 スレイマン1世は、スペインと戦うため海軍の大拡張に乗り出します。1533年、アルジェを根拠地とする海賊バルバロス・ハイレディンをパシャ(海軍総督)に任命しアルジェリアも帝国の版図にしました。これに対しスペインも黙っておらず、1535年には海軍をチュニスに派遣しここではオスマン軍を破っています。

 両者の海上における直接対決は時間の問題でした。きっかけは1537年ハイレディン率いるオスマン艦隊がエーゲ海イオニア海におけるヴェネチア共和国の島々を次々と占領した事です。危機感を覚えたヴェネチア教皇パウルス3世に訴え、教皇の提唱でカール5世を盟主としヴェネチアジェノバ教皇領、聖ヨハネ騎士団から成る連合艦隊が結成されました。指揮官はジェノバ出身でスペイン・ハプスブルク帝国の海軍提督だったアンドレア・ドリア。

 連合艦隊は1538年ヴェネチアの拠点だったコルフ島に集結します。その兵力ガレー船162隻、歩兵6万。当時ヨーロッパでは最大規模の艦隊でした。オスマン海軍もハイレディン指揮の下122隻のガレー船、2万の兵力を集めます。両軍はギリシャ西海岸のプレヴェザで激突しました。数に勝るカトリック連合艦隊の方が有利なはずでしたが、寄せ集めのために纏まりに欠け連絡の不手際から一時兵を引く事になります。そこを見逃さなかったハイレディンは追撃を命じました。撤退の陣形から向き直って戦いの陣形に戻すことは容易ではありません。寄せ集めの艦隊ならなおさらです。結局連合艦隊は、自ら招いた失策によって不利な状況で海戦に突入します。

 連合艦隊は13隻のガレー船が沈没、36隻が拿捕、3千人の捕虜を出しました。損害自体は軽微なものでしたがカトリック連合艦隊が敗北したという事実には変わりなく、以後カールの息子フェリペ2世が1571年レパントの海戦で雪辱するまで地中海の制海権オスマン帝国が握ることとなります。


 スレイマン1世とカール5世の対決は外交でも続けられ、一説ではフランス王フランソワ1世とその子アンリ2世がドイツ宗教改革を唱えていたルター派諸侯に援助した資金の出所はスレイマン1世だったとも言われます。これが本当だとすると世界史は面白いですね。両者は地中海だけでなく紅海、インド洋でも対決します。もともとスペインやポルトガル大航海時代喜望峰回りの航路を開拓したのは地中海貿易をオスマン朝に独占されていたからでした。

 1538年にはポルトガルに脅かされていたインドのグジャラート・スルタン領の救援要請を受けインド洋に艦隊を派遣しています。イエメンの重要港湾アデンを占領したのもこの頃です。ポルトガルペルシャ湾の出口ホルムズを占領するなどこの方面でもオスマン朝とヨーロッパ勢力との戦いは続きました。


 スレイマン1世はオスマン帝国最盛期を築いたスルタンです。しかしその治世の晩年さしもの名君にも衰えが目立ち始めます。奴隷出身の皇后ヒュッレム・スルタンは残された肖像画を見ると驚くべき美貌ですが、彼女は自分の息子を後継者にするためスレイマンに他のスレイマンの王子たちを讒言、無実の罪を着せて処刑させます。この悪女は1558年死去しますが、彼女の暗躍でイスタンブールの宮廷はガタガタになりました。結局ヒュッレムの子セリム2世が第11代スルタンに即位しますが、スレイマン1世の晩年は暗いものとなります。

 家庭の不幸を忘れるため、スレイマン1世は晩年になっても外征を繰り返しました。1566年神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世(オーストリア大公フェルディナント1世の子)が和約を破りハンガリーオスマン領に攻撃を加えると、報復のため出陣します。遠征の途中、セゲド包囲戦で病を発し没しました。享年71歳。


 スレイマン1世は壮麗者という綽名の他に立法者という名でも呼ばれます。これは彼がオスマン朝の数々の立法や諸制度を整えたからで、生涯で13度の遠征と同時に行っていたのですからまさに超人でした。彼の時代がオスマン朝の絶頂期で、以後緩やかな衰退期に入ります。とはいえ、軍事的にはまだまだヨーロッパ勢力にとって脅威でした。


 次回はオスマン帝国の陰りがはっきりと表れたレパントの海戦を描きます。