
前記事で、兄カール5世から神聖ローマ皇帝位とオーストリア大公領、ドイツ本土のハプスブルク領を譲り受けフェルディナント1世(在位1556年~1564年)がオーストリア・ハプスブルクの祖となった事は書きました。
しかし甥(カールの子)のスペイン王フェリペ2世と比べるとどうにも地味な印象が拭えません。国際政治はまさにフェリペ2世を中心に動いていたと言っても過言ではなく、義弟ハンガリー王ラヨシュ2世の戦死で棚ぼた的に得たハンガリー王位とボヘミア王位もハンガリー貴族の反発を受けたりオスマン帝国がハンガリー領の大半を制していた事から実を伴うものではありませんでした。
フェルディナント1世は激化するプロテスタント(ルター派)との宗教戦争に生涯をささげたと言っても良く、後を継いだマクシミリアン2世(フェルディナントの子)、ルドルフ2世(同孫、在位1576年~1612年)の治世も基本的には変わりませんでした。
ルドルフ2世は融和政策を布いた父とは違い、プロテスタントを弾圧します。これが彼の死後に起こる30年戦争の遠因となりました。
ルドルフの死後、皇位は弟のマティアス(在位1612年~1619年)が継ぎますがまさにこの時代30年戦争が勃発します(1618年~1638年)。
詳しくは過去記事で書いているのでここでは概略を述べるに止めましょう。
シリーズ30年戦争①~④
最初はカトリックとプロテスタントの宗教対立から始まった30年戦争でしたが、帝権を拡大したいハプスブルク側とそれに反発したプロテスタント諸侯の対立からデンマーク、スウェーデン、フランスを巻き込む大戦争に発展しいたずらにドイツ国内を荒廃させただけの戦いとなります。1648年ウエストファリア条約で戦争終結、この結果ネーデルラント北部17州が正式に独立しオランダとなりました。
世界帝国スペインの凋落は決定的となり、ハプスブルク家もドイツ国内でのこれ以上の帝権拡大を諦めオスマン領だったバルカンへの進出に矛先を向け始めます。プロテスタント諸侯の中ではブランデンブルク選帝侯が急速に勢力を拡大し後のプロイセン王国になりました。フランスは、その後もスペインとの戦争を継続しスペインに代わってルイ14世が国際政治の中心に躍り出ます。
ハプスブルクとオスマン帝国との対立は1683年第2次ウィーン包囲に発展しますが、ハプスブルクは帝都を守りぬきました。これがオスマン帝国最後の攻勢となります。以後オーストリアは反撃に転じ、ポーランド、ロシア、ヴェネチアと神聖同盟を結びオスマン帝国を攻めました。戦争は16年に及びます。歴史上大トルコ戦争と呼ばれました。
カール6世には長女マリア・テレジアをはじめとして4人の女子をもうけますがついに後継ぎの男子は得られませんでした。歴史あるハプスブルク帝国を断絶させるわけにはいかないカールは、長女マリア・テレジアを後継者にすべく涙ぐましい努力をします。
無理に無理を重ねたカールは、ドイツ諸侯やフランスなど隣国に妥協を重ね1713年金印勅書によって性別に関係なく長子が後継者となる事を決めました。とくにドイツ国内で最有力の選帝侯であったフリードリヒ1世(有名なフリードリヒ2世の祖父、在位1701年~1713年)には正式に王号を認めます。それまでは辺境プロイセンにおいてのみ王号を認め、ドイツ国内ではあくまでブランデンブルク選帝侯でした。
当時のプロイセン王国は、ドイツ騎士団領を併合しスウェーデンからはポンメルン(ドイツ北東部、バルト海沿岸地域)を奪うなど発展著しく急速に台頭していました。フリードリヒ1世の後を継いだフリードリヒ・ウィルヘルム1世(在位1713年~1740年)などは軍隊王と渾名されるほどで、後の軍国プロイセンの基礎を築きます。
当時の欧州では考えられない女子相続、プロイセンを始めとするドイツ諸侯はこれをすんなり認めるのでしょうか?1740年マリア・テレジアが弱冠23歳で即位したとき波乱の生涯はすでに約束されていたとも言えます。同じ年、終生のライバルとなるフリードリヒ2世がプロイセン王国で即位していました。
次回、女帝マリア・テレジアとフリードリヒ大王の死闘を描きます。