鳳山雑記帳はてなブログ

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ハプスブルク帝国Ⅳ  カール5世

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 神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世(在位1493年~1519年)は婚姻政策によってハプスブルク家の領土を拡大した皇帝でした。嫡男フィリップ美公をスペイン王女ファナと結婚させスペインを獲得した事は前記事で述べました。
 
 それ以外にもフィリップの次男フェルディナント(のちのオーストリア大公、神聖ローマ皇帝)をボヘミア王ハンガリー王の王女と結婚させ、さらには孫(フィリップの三女)のマリアを同ボヘミア王ハンガリー王の太子ラヨシュ2世と結婚(二重結婚)させるなど着々と領土を拡大していきます。
 戦争という手段に訴えず、ハプスブルクの家領をドイツ本国のみならずスペインおよびスペインの持つ広大な植民地、ナポリ(当時スペイン王が兼任)、ハンガリーなどに拡大したのですからある意味名君と言えるかもしれません。
 
 
 しかし、ハプスブルクの前に大きな暗雲が立ちこめようとしていました。すなわちオスマントルコの台頭です。マクシミリアンと彼の後を継いだ孫のカール5世はオスマントルコの脅威と生涯対峙し続ける事になります。
 
 
 フィリップ美公とスペイン王女ファナとの間に生まれたカールは、生まれながらにしてスペイン王位とネーデルラント・フランドルを領土とする当時欧州一富裕なブルゴーニュ公位を約束されていました。生まれたのはフランドルの大都市ガン。そのため本国オーストリアより低地諸国(ネーデルラントブラバンド、フランドル地方。現在のオランダ・べルギー)に生涯愛着を持ち続けたと言います。
 
 愛する夫フリップ美公が夭折(1506年)し発狂した(と噂された)ファナが1508年父フェルナンド2世(アラゴン王、カスティリア女王イサベルの夫)によって事実上幽閉されると、アラゴンカスティリアを統合したスペイン王国の王位継承権は宙に浮きます。そのフェルナンド2世も1516年死去したことでスペインの廷臣たちは、ファナとフィリップ美公の間に生まれた長男カールを新たなスペイン国王として迎えました。すなわちスペイン王カルロス1世の誕生です。
 
 この時点でカールが領有することになったのはスペイン(含む植民地)、低地諸国(ネーデルラント・フランドル・ブラバンド)、サルディニア島シチリア島ナポリ王国イタリア半島南部)という広大なものでした。
 
 1519年、祖父マクシミリアン1世が死去します。次期神聖ローマ皇帝はしかしカールにすんなりとは受け継がれませんでした。フランドルで生まれこれまでの生涯の大半をこの地で過ごしたカールに選帝侯たちが待ったをかけたのです。祖父の死でさらにオーストリア大公位を継承したとしても選帝侯たちはこれを認めようとしませんでした。
 
 反対派は、何とフランス王フランソワ1世を次期皇帝に推します。皇帝選挙は熾烈を極めました。カールはアウグスブルクの大富豪フッガー家の莫大な資金援助を受けてからくもこの選挙に勝利します。神聖ローマ皇帝カール5世(在位1519年~1556年)の誕生です。
 
 フランソワ1世とは、豊かなフランドルやイタリアの領有権を賭け激しく戦う生涯のライバルとなりました。ところがドイツの危機はフランスからではなく南からやってきます。
 
 オスマントルコの進出です。アナトリア半島の一角に興ったオスマン帝国は数次に渡る欧州の対オスマン十字軍を撃破しバルカン半島を浸食しつつありました。時のオスマン帝国スルタンは帝国最盛期を築いたスレイマン1世(大帝、在位1520年~1566年)。即位後間もない1521年には早くもハンガリー王国からベオグラードを奪います。1526年モハッチの戦いでハンガリー王ラヨシュ2世を敗死させるとハンガリー中央部を征服、ラヨシュの死後ハンガリーを受け継いだハプスブルク家オーストリア大公国領と接しました。
 
 1525年イタリア・パヴィアの戦いでカールに一敗地塗れたフランス王フランソワ1世は、カール憎しの感情から何とオスマン帝国のスレイマン大帝と同盟を結びます。スレイマンは1529年12万の大軍をもってイスタンブールを発し長駆オーストリアの首都ウィーンを囲みました。
 
 ウィーンを守備するのはオーストリア軍わずか2万。まさにヨーロッパ存亡の危機でした。もしドイツが滅ぼされたら次は自分の番だとフランソワ1世は分かっていたかどうか?
 
 オーストリア軍は、帝都ウィーンを必死に防戦します。さしもの精強を誇るオスマン軍も攻めあぐね包囲戦は冬に突入しました。攻囲2カ月、オスマン軍は大軍だけに補給に困るようになります。カールは各地から兵力を集め包囲するオスマン軍をさらに遠巻きにしたため、スレイマン大帝は攻略を諦め撤退します。こうして最大の危機は去りました。
 
 しかし、ハンガリーの大半はオスマン領に組み込まれハプスブルグ家に残ったのは名目だけのハンガリー王位でした。これが現実のものになるにはさらに150年の月日がかかります。
 
 オスマン帝国の圧力はこれだけではありませんでした。1528年にはスペイン、ベネチアローマ教皇連合艦隊がプレヴェザの海戦でオスマン艦隊に敗北、オスマン朝との戦いではカールは終始押され気味でした。
 
 
 
 オスマン朝ハプスブルクの力関係が逆転するのは、カールの息子フェリペ2世の時代です。カール5世の時代は外患だけでなく国内にも爆弾を抱えていました。すなわちルター派の問題です。マルティン・ルターは腐敗したカトリック教会を糾弾し宗教改革を唱えます。このプロテスタント運動はドイツ国内を席巻し庶民だけでなく貴族たちにまで信者を拡大しました。
 
 カールは1545年トリエント公会議を開きカトリックプロテスタントの融和を図りますがほとんど効果はありませんでした。逆にプロテスタント諸侯と新教諸都市からなるシュマルカルデン同盟は勢いづきカール5世に戦いを挑む始末でした。この宗教戦争はカールを悩ませます。結局カールの時代では解決せず、1618年から始まる30年戦争に繋がるのです。
 
 1556年、内憂外患に疲れたカール5世は退位を決意しました。持病の痛風が悪化していたとも云われています。スペインと低地諸国は息子のフェリペ2世に受け継がれます。一方オーストリア大公と神聖ローマ皇帝の地位は弟フェルディナント1世に譲りました。
 
 これをスペインハプスブルクオーストリアハプスブルクの分裂といいます。しかし圧倒的な力を持っていたのはスペインとその植民地、ナポリ王国、ドル箱ともいうべき豊かなネーデルラント保有していたフェリペ2世の方でした。国際政治はフェリペ2世を主、フェルディナント1世を従として動きます。対オスマン戦争もすべてフェリペ2世が主導していました。
フェリペ2世の時代がスペインハプスブルクそしてスペイン王国の全盛期です。
 
 
 退位後のカールはどうなったでしょう?彼はスペインのユステ修道院に隠棲し1558年その生涯を終えます。この後ドイツは宗教改革の嵐・30年戦争、そしてスペインはレパントの海戦ネーデルラントの独立・無敵艦隊がイギリスに敗れたアルマダ海戦と激動の時代を迎えました。